〒 音楽の旅紀行 〒
〒 その 129 NHK行 2000年5月18日
前略 二十歳の春に旅立って、九州を回り初夏に四国の松山に落ち着いた。
それまでは社会に刺激されているだけの自分であったがそれもやめ、ひたすら眠り続け、
自分のリズムを取り戻していった。
「ひとり」だとか「ライラックの木の下で」「銀河経由コスモス行きカオス号」などの作品を作っていた。
ところで私はゴキブリを見るのがこの年が始めてのことで、かなり神経質になっていて、
ホイホイなどを設置して抵抗していた。
というのも私は北海道育ちなもので南国の蚊に刺されるのは始めての事で、
5センチほども赤く腫れ上がり、体が「デバイスの準備ができていません」状態であった。
そんなある日、狭い廊下を渡る視界に、もみじのような陰影が映っていたのだが、
気にもとめずに過ごしていたが、なんと5センチほどもある毛の生えた蜘蛛だっだ。
クモ君などというものではなかった。
シャトルでエイリアンにからかわれるデュプリー状態で部屋に駆け込んでいったが、
窓の向こうに居て寝ていると見え、暑くて閉められない状態なのだ。
この時ばかりはお手上げで同じ下宿人の御兄さんに助けを求めた。
この人は背が高くブルドーザーの営業とかで高知と松山を行ったり来たりしている人で蜘蛛を見るなり
「うちの田舎にはもっと大きいのがいますよ」と言ってほうきを取ってパシッとやったが、
撃ち損ねてこちらに向かって来たのだ。
ワッと声こそ出さなかったが、私は笑いをこらえるのと怖いのとで真剣な顔をしていた。
1974年、松山の夏は暑かった。 草々
〒 その 130 NHK行 2000年5月24日
前略 ホッチョホッチョと誰に教わったのか隣の家のサホちゃんが言う、
「ホッチョじゃないって、ホージョウ」、………ホッチョホッチョだ。
幼稚園へ行ってる女の子で子供独特のおなかをしているから
「ポンポンなに入ってるー」と指で突っつくと、だまーって考え深そうな顔をしていた。
旅館を改造した部屋で大家さん一家 (おばあちゃん・奥さん・女の子) が一階に住んでいた。
朝、激しい泣き声で目が覚めたが隣のサホちゃんの強烈な泣き声だった。
玄関入り口が広くて時々子供等が玩具を広げて遊んでいるのだが、
サホちゃんが指を切ったとかで、奥さんが出て来て手当てをしているようだった。
「うるさいなぁ朝っぱらから」とそのまま眠ってしまったが、
10時頃起きて階段を降りていくと子供等がまだ遊んでいた。
「どれサホちゃんどこ切ったって」と言うと進んで包帯を取って見せてくれたが、
見えないのだ、よーく見るとちょっこし何とかなっているようだった。
七夕の日には無口なクミ子ちゃんが浴衣を着て髪飾りでおでこを見せていた。
奥さんの子供で一年生だったと思ったが、クミ子ちゃんはおでこが広い、ということが分かった。
そんな他愛のないこと総てが作品に反映してしまうほど、自分のリズムが回復しつつあった。 草々
〒 その 135 NHK行 2000年6月15日
前略 松山での夏の第一声はツクツクボウシであった。
北海道にはハルゼミ、エゾゼミ、アブラゼミ、クマゼミはいるが、ツクツクボウシはいないのだ。
鳴きかたのとおり、ツクツクツークではなくツクツクボウシと書くところが憎いところで、
小さいくせにリズムとサビを心得ているミニ・ミュージシャンである。
早速近所の子供等に協力してもらい56匹ほど捕まえて部屋に放しがいにしてみたが、
鳴いてはくれず、それでも大満足であった。
私のアコースティックギターはギルドのJ-50(当時で25万)だが、
買った動機は何といってもヘッドの形と模様がエゾゼミにそっくりだったからだ。
当時はマーチンとギブソンが双璧を成していて、雑誌ではギルドは女性的な音色と紹介されていたが、
私はどうも中間の音色のような気がしてならなかった。
引越しで部屋が変わりギターを弾くと遠慮しちゃってバリン、バリン、と目の前でしか鳴らないのだが、
何日か弾きなれていくと部屋全体で鳴り出すのだ。
もちろん「蝉」という作品もあるが、それは一つ前のギターで、
このギターでは「涼しさ」という蝉をベースにしたコードフットワークが似合う作品がある。
このギターがなければ、いとしのエリーも、雨やどりも、松任谷由実の一連の作品も、
生まれてはこなかったという彼等にとってはとてもありがたいギターであるが、
一度味を覚えたら原曲さえ平気で盗むというパターンで、作曲者にとっては最悪の連中である。 草々
〒 その 137 NHK行 2000年6月24日
前略 私がフラフラしているせいか、奥さんから犬の散歩を任されていた。
この犬、中型の柴犬、ニーは「犬は喜び庭駆け回る」という詞のとおり、
一時としてじっとしていてはくれないバカ犬で、おまけに抱きついてくるという癖があって、
Тシャツやズボンを泥だらけにされてしまうのだ。
話では4・5匹の犬とケンカをしてケガを負い、退院したばかりとかで、
運動不足もあってか、おおはしゃぎで、私はかわしながら、かわしながら散歩をさせていた。
ある日、病院に連れて行くように言われ地図を持たされ出かけたが、着いたとたん私は息を呑んだ。
あの落ち着きのないニーが診察台の上でよだれを垂らしながらじっとしているのだ、
先生に傷口を触られ診てもらっているのだ!
「先生!」「………えー………」「先生に診てもらってる…判るんですか?」
「………判るんだろうねぇ………」私はただただ関心して見ていた、ニーは賢かった。
いやな予感はしていたのだが帰り道、放し飼いの大きな犬2頭に吠えまくり、
こちらに向かってきたのだが、飼主に止められ事無きを得たが、
冷や汗を掻いて帰宅したのを憶えている、ニーはやはりバカ犬であった。
おばあちゃんは三味線のお師匠さんとかで時々ベンベンと鳴らし、
2階の私の部屋にも聞こえてきていた。 草々
〒 その 141 NHK行 2000年7月14日
前略 ついに告白、私の女性遍歴。と書いてみても、もてた話はないんだなぁ。
書店で、かの有名な麻田奈美嬢の写真集が出ているが、じつは当時の林檎ヌードをもっていたのだ。
女子高生がこれほと色っぽいとは思ってもみなかった。
胸の谷間に家を建てて住みたいとか、この林檎どうにかなんないのかとか、
じっくりと眺めまわしたものだが、それが5年ぶりに家に帰った時に、
押し入れの敷き紙の下から偶然見つけて、なんと旅立ちの時、持って行かなかった事に気づき、
さらに並々ならぬ決意で旅立った事をも思い出させた。
その頃は貯金が貯まれば作詞作曲に没頭するという毎日で、充分に加速していた時期だが、
思いもよらない事故に巻き込まれ悪夢の79年になってしまった。
ここまでが私の初期作品と位置付けている。
熊本から高千穂、鹿児島と旅していた頃、同じように旅行していた彼女に「熊本でも見かけたよ」と
声をかけられ話がはずんだが、「ばってん私もついて行く」とか言いだして私はうんとは言わなかった。
長崎の人で何かあったら電話しなさいといってくれたがこれが私の旅先で出会った唯一の女神であった。
(※2歳年上の田中千代美さん) 草々
〒 その 148 NHK行 2000年8月13日
前略 松山を拠点に時々旅をしていたが高知へ行った時は大変であった。
旅、旅、と自分では旅のつもりなのだが、グリーン車に乗ったり、船の2等客室に乗ったりして、
ハイカラでもあったがこれも社会勉強である。
松山から高知まで山脈を延々とバスでひた走るのだが、
なんと隣の窓側の座席にサマーハットのハイカラな女のコが座ったのだ、
しかも何故かバスケットを窓側の座席に置いたものだから太腿をぴったり私に摺り寄せてくるのだ。
高知城や、はりまや橋を回って夜の9時頃、高知駅前をふらふらしているとペロッとした顔立ちの
少し年上の男性に「宿が見つからないなら泊めてやるよ」と言われ私はふらふらついて行った。
その日はとくにふらふらしていたのだ。
留守番をしているとかで気楽にと言われ、お風呂にも入ったが「一緒に入っていいかい」と聞こえ、
人一人が入るのがやっとの浴槽なのに、おかしな事を言う人だなぁと断ったが、
話をしても随分よいしょしてくれるので泊まるつもりでいた。
寝ようという事になったら布団を一人分しか敷かないのだ。
ケチな人だなぁと思ったが服のまま寝てしまったが暫くすると私の体に摺り寄せてくるのだ。
えっ?女のコの話が途中だって?それもこれも続きはお盆あけにしましょう。
予告 世間知らずの蘭兵衛に迫りくる女と男、結末はいかに。 草々
〒 その 151 NHK行 2000年9月2日
前略 うぶと言ってしまえばそれまでだが私はこういう時、何も出来ないのだ。
チラッとでも彼女の顔を見るほうが自然というものだが、それも出来ないのだ。
ただじっとしていて、時々足元を見ちゃったりして、何気なく後部座席の隙間に目をやると大の大人が二人、
体を乗り出して直視していたのが印象的だった。
県境で彼女は降りたが、お姉さんらしき人が迎えに来ていて、
その時チラッと見たが可愛いというほかは何がなんだか訳が分からなかった。
彼の家に着くなり「電話してくる」と言って用心はしていたのだ。
しつこくはなかったがそばに寄ってくるから吠えたりして夜通し眠れなかった。
明け方近く、ぶいぶい言いながら外へ出たが、彼も何か言っているようだった。
外の空気を思いっきり吸うと気分が落ち着き、「ホモだ」ときずき、
当時流行のその言葉を何度も何度も繰り返して、妙に納得したのを憶えている。
駅までの帰り道、蝙蝠が飛び交い、まるで夜空を破いているようだった。
気楽な一人旅であっても盗作の他に、食中毒に当ったり、前歯を抜いたり、
ホモの家に一泊したりと危ない事もあるのです。 草々
〒 その 154 NHK行 2000年9月21日
前略 9月中旬には北九州市の小倉に居を移し、住金の構内で九州男児に囲まれて汗を流していた。
貯金も底をつき、神戸あたりに進路を決めていたが、ちょうど台風が北上してきていて、
急きょ迂回して北九州市に決めてしまった。
台風から逃げたのはこの時が始めてで、気まぐれな旅ならではの選択であった。
私は旅に出るまでの4年間、やはり住金と同じような大きな会社の構内で溶接の仕事をみっちりやっていた。
タンカーに使う厚板の、ステンレスと鉄がうまく接合されなかった個所をX線で調べ、削り落とし、
私のような溶接工が肉盛りして仕上げるのだが、面を被ると外界から遮断され、
微妙に動く光の一点を呼吸を整えて集中し、重ね合わせ、
一層、二層、三層と盛り上げて製品に近づけていくのだ。
タンカーの側には4・5ミリほどのステンレスしか使われていないのだ。
私の集中力はこの時に養われたと思っているのだが、皮肉な事に溶接の煙で喉を燻され、
声が続かないという音楽を目指すにはありがたくはないオマケ付きではあった。
ギターのチューニングを合わせ、耳を近づけて、ポロンと鳴らした時の和音の美しさ、
もうそこから音楽が始まっているのです。 草々
〒 その 161 NHK行 2000年10月27日
前略 働き出すとこれといったエピソードもなく、無難な毎日であった。
アパートの共同炊事場の広いガラス窓にヤモリが出没していて、何時も観察をしていた。
見なれない生き物を見るとほっとけない性質なのだ。
ある夜、グットタイミングに出会い、蛾を射程距離にとらえていた。
なかなか近づかずにいると思った瞬間、ひたひたひたと近づきパクパクとやったが、
如何せん蛾は外に居るのでこちらから食べても無理なのだ。
ヤモリも面白い事するなぁと思い、俄然捕まえたくなり、
こわごわ2匹捕らえて尾っぽと尾っぽを糸で結び放してやった。
何故そんな事までしたのかは自分でも解らないが、おかげで隣の若妻に熱―い視線を投げかけられた。
江戸時代の話で裏覚えだが、大工が古くなった塀を建て替えるのに壊していたら、
釘が刺さって動けないヤモリを見つけた。
つまり塀の釘を打った時に偶然居合わせ、幸いにも急所を外れていた為、
連れ合いがせっせと餌を運び、塀が朽ちる今の今まで生き延びていたという事なのだ。
案の定連れ合いがひっそりと近くに潜んでいたという。
それほどヤモリは夫婦の絆が強いのだそうだ。(※柴田錬三郎随筆集・どうでもいい事ばかり)
面白いにしろ、泣けてくる話にしろ、こんな小さな生き物でも懸命に生きているという事なのだろう。 草々
〒 その 173 NHK行 2001年1月8日
前略 お城巡りも目的の一つだったので、旅の途中で、城のある土地を見つけては下車をしていた。
松山では腰を下ろしていたので、後回しになっていたが、なんと下宿のすぐ近くにあったのだ。
大街道をぬけて商店街の裏手に、見上げるような小山があり、リフトが延びていて、
いつも「なんだベ」と思っていたが、地図で調べるとお城マークが付いていたので、さっそく登った。
樹木を掻き分け、緑多いそこにお城があり、良く調和していた。
小倉城はお城だけがお城らしくて、あとは公園のようであった。
石垣があってお城がそびえていると重奏感・重量感があるのだが、実は石垣の中はスペースがあって、
そこから良く肥えた巨木が四本、真柱として天守閣まで貫いているのだ。
中学校の修学旅行の時、櫓であったか、お城であったか、こじんまりとした建物に入ったのだが、
その階段の勾配のきつさに度肝を抜かれたのを憶えている。
言うまでもなく、戦に備えるという準備がこんな処にまで影を落としているのだが、
当時は落ちて怪我したらどうするの、で頭が一杯であった。
黒澤監督の作品にもこの勾配を強調したシーンが何度か出てくるが、
こちらは臨場感が細部にまで行き渡っている、といったところだろうか。 草々
〒 その 185 NHK行 2001年2月25日
前略 小倉での一人ぽっちの正月は壱岐島で過ごしていた。
博多からフェリーに乗り、タクシーの運ちゃん経営の民宿まで行き当たりばったりの道程であった。
実はこの時、すこぶる体調を崩していて、博多で一泊したほどなのだ。
それでも前へ進んだのは、出ずっぱりな旅の途中であったからか、
讃岐と壱岐とを読み間違いをしたなどという事なのか、それにしても変な下痢であった。
「旅人は同じ道を通らない」というのがあって、私も憧れたものだが、
こうも陰謀渦巻く世の中では無理というものだが、
それでも作品作りの心構えとしては、随分活かしたつもりでいる。
こういうセンスを磨いていると、たとえば、いずみたくと浜口庫之介は、
ほとんどメロディラインのセンスは同じだが、全体を通して見ると幾分浜庫の方が音符が長い、
などと見えてくるのだ。
それ以上に汲み取るものも無いのだが、勿論彼等の時代にあっては共食いやら噛み付きあいなどは、
なかっただろうが、現在においては、私の作品を外した彼等の作品を分析してみるのもいいだろう。
もっとも分析できるくらいなら盗作などしないだろうが。
(浜崎ベストアルバム、発売決定 ・涎流るるが如くである)
民宿では一人ぽっちで、ギターもなかったので、日本海に面した窓際でボケーッとしていた。
私はよくギターの音を止めてはボケーッとする性質なのだが、それも抗議文を提出するまでで、
今はそれもなくなった。
つまりボケーッとする事もできなくなったという事だ。 草々
〒 その 186 NHK行 2001年3月2日
前略 十代の頃、夜勤の仕事を抜け出し、星空の下であぐらをかいて、
日本のロックをどう組み立てるべきかを、真剣に考えていた。
勉強でも遊びでも悩んだ事もないのに、星空の下で、腕を組み直したりして、
そんな自分がくすぐったかったが、ロックにはそんな魅力があった。
当時はツェッペリン・ディープパープルが全盛で、サウンド重視であったから、尚更であった。
兎に角、日本語というのはロックにはノリが悪いのだ。
で、考えついたのが、歌詞をくずして唄うとか、アイヌ語で唄うとか、笑わないで下さい、
当時は真剣だったのです。
やっぱアメリカへ行こうという気になって、そこから旅が始まったのだが、その旅の産物。
赤いサンダル つっかけて プイと出たきり一生過ごす
色んな事があるだろう けれど とにかく サンダルで
赤い果実 まるかじり 甘い蜜が飛び散って
ついでにサンダル磨いちまって むやみ やたらと 凄んでみる
未完ではあるが、かなりのスピード感でノリがあるでしょう。
雨だれイン レイン レイン 街に降って来たウン タウン タウン
どちらも力不足で未完のままだが、こういう企画は大変で、
もっとシンプルな世界に駆り立てられたのを憶えている。
後年、チャック・ベリーの詞を読むと、とてもシンプルで、私が何年もかけてたどり着いたのに、
この人はデビュー当初からスタートしていて、さすが自由の国と唸らされた。 草々
〒 その 193 NHK行 2001年4月7日
前略 小倉荘の近くに、路面電車が通っていて、その並びに貸し本屋があり、
そしてついに入ってしまった。
というのも、その頃はいつも頭の中に三つ・四つは作りかけのメロデイがあり、
何はともあれ優先していたからなのだ。
一度、鬱陶しいと感じ、みんな仕上げてしまった事があるが、その後に、創作の感触が掴めず、
一億年の孤独を味わったことがある。
作曲というのはそういうものだと体で感じ取ったものだ。
HPに女の子の詞ばかり載せてはいるが、これで女子高生の心を一気にぎゅっ、
などとは27年前から現在まで考えたことは一度もないし、そんな余裕さえなかった。
イメージがあって、それにより近づける為の表現方法として自然にそうなってしまうのだ。
ともあれそんな心配をしながらも毎夜、何冊も劇画を借りては読みふけっていた。
貸し本屋自体が始めての体験であって、コーラと塩せんべいと漫画があれば、一時の幸福であった。
ある夜、貸し本屋に中学生位の女の子と弟と二人で来ていて、
その可愛さに私は棒立ちになって眺めていた。
テレビも無く、友達もいない生活の中で、そんな出来事だけが何時までも記憶に残り、懐かしく蘇る。
それから何ヶ月か経って、和歌山でガロとの劇的な再開を果たすのだが、その話はまた後ほど。 草々
〒 その 213 NHK行 2001年7月29日
前略 現在はどうなのか解らないが、当時は荷物など駅留めにしてもらえたので、
布団袋などは、和歌山駅留めである。
「ギターを抱いた渡り鳥」などと会社の人に冷やかされながら、
小倉を後にしたのが、75年の2月下旬の頃だった。
3・4日ぶらぶらしながら和歌山に辿り着き、部屋を探し、荷物を受け取るという按配だ。
荷物といっても、松山のおばあちゃんから譲り受けた布団と、ラジカセ、ギター位のものである。
それにしても広島、岡山と立ち寄っていて、姫路には寄っていないのだから、
私もどこか間が抜けているのである。
車窓で姫路城を見つけ、「あーっ」と声を出したような気がするのである。
音楽の旅であったから、観光地を尋ねなくても苦にはならなかったが、
作詞・作曲が中断するのは辛かった。
であるから81年までの8年の間に200曲ほどであり、一ヶ月に2・3曲のペースなのである。
「ここよりほかの場所」へのアプローチであり、創作もまったくの未知数、
詞を作った後に気が向いたら曲をのせていたのでスローペースである。
京都・大阪と巡り、天王寺に向かっている電車の中で、歯科医の薬袋を抱えたティーンが、
シクシクと泣いている姿を見て、大阪の人はあけっぴろげの人が多いのかなと思ったものだ。 草々
〒 その 229 NHK行 2001年11月11日
前略 和歌山にいた頃は一週間が六日しかなかった。
と言うのも久し振りの自由な時間を得て、何時までも起きていて、
何時までも眠り続けていたものだから毎日が少しづつズレていき、そうなったのだ。
夜中に目覚めた時などカップヌードルで間に合わせていたが、
みるみる山のように空カップが増えていった。
そんな変則的な、不規則な暮らしであるから、てき面に体力が衰えた。
私の場合、体力を使う仕事をしているから、一週間位、身体を使わなくても平気、
とはいかず、2・3日でもう、虚脱感でぐったりとなるのである。
子供の頃からの飛んだり跳ねたりの習慣からの以外な変化でもあった。
それで充実していたのかというと、充分幸福であったし、
何よりも音楽でやっていける自信のようなものが芽生えつつあった。
であるから遠出の時は、睡眠不足の身体で、奈良に出かけては途中で戻って来たり、
大阪の映画館(ビートルズ3本立)が、込んでいては直ぐに帰ってきたりとふらふら、ブラブラしていた。
ソロアルバムの「マッカートニー」というのを兄の部屋で旅立つ前に(74年)
聴かせてもらったが、「Junk」と言う、もの悲しい曲がある。
「サビが一番と二番が違うね」「同じだよ」「違うよ…♪…ほら」などとチグハグな会話をしながら、
「…何か…東洋的な」という感想を述べたが、実際ブリテッシュロックから程遠い日本的なと言いたかったのだが、
私の耳もまんざらではないようで、これをひっくり返してみると面白い結果が得られます。
80年の日本公演ではコンサート会場へは行かず、
拘置所へ向かってしまったが、ポールなりのケジメをつけたのであろうか。
逆回転曲など推奨している国家などある訳がないのだから、
日本も早くケジメを付けてもらいたいものである。 草々
〒 その 246 NHK行 2002年3月7日
前略 広い道と狭い道とに分かれた先の三角地帯に居を構えていたが、もっぱら狭い、
と言ってもバスが通っていたが、歩道を歩いていた。
和歌山の知らない街に一人ぽつんと生きていたわけだが、寂しいなどと感じた事はなく、
自給自足が出きる身であれば、もっと孤独にいそしんでいただろう。
小倉にいた時に、小学2・3年の女の子に挨拶されて
、「なんだ、誰」という顔をしてしまって大失敗をした事があるが、
何の事はない、近所のサンドイッチ屋の子だったのである。
つまり顔なじみであれば挨拶もしてくれる、そういう世界に居たのであるが、
そんな事も忘れてしまうほど貴重な時間に在ったのである。
とはいえ、決してネクラ人間ではないし、小・中学の頃は人気者であったし、
クラスに転校生が入ってくれば、まず始めに声をかけ、仲良くなるのは私であった。
ガロ作家の鈴木翁二氏の漫画に、旅に出るのは「考えたくない事が山ほどあるから」
というようなセリフがあって、むしろそちらの方が、私にもしっくりくるような気がする。
ある日、何気なく歩いていて、横を向いて、本屋を見つけ、
引き付けられるようにガロと再会したのである。
中3の時に一度手にしたことがあり、今で言う劇画という言葉も知らなかったし、
大人びた漫画であり、滝田ゆう氏の寺島町奇譚のページが重複していたりして、
変わった漫画だなという印象があった。
兎に角、メジャー本にはない、個性的な独特なペンタッチは、私を心の底から暖めてくれた。
ところで例の女の子であるが、もう二度と挨拶してくれなくなった。 草々
〒 その274 NHK行2002年9月20日
前略 元、和風旅館で、十二畳位の畳の部屋であったが、
寒いのと、物持ちが無い性で、蒲団の上で過ごしていた。
夏蒲団であったが、電気敷き毛布で、十分、冬は越せたのである。
大家さん夫婦が一階に住んでいたが、住みだして直ぐに、
お爺さんの方が、体が悪くなったとかで、お婆さん付き添いで入院してしまった。
二階は四部屋ほどあったが、
ほかに借りている人は一階に一人ほどであったから昼も夜も静かであった。
流石にテーブルは貸してくれたりして、
寝ている時に娘さん(オバサン)が掃除に来たりしていた。
たぶん昼間なのだろうが、雨戸も締め切っていて、
私は蒲団の中で眠っていた。
鍵も付いていず、障害物もない、十一畳?ほどの部屋をそそくさと掃除していたようであった。
大きな工場の構内で決まりきった溶接の仕事はしていたが、
小倉のような構内の突貫工事のような仕事は初めてだったので、かなり疲れた。
であるから和歌山では二十四時間近く爆睡していたのである。
その構内の食堂で頻繁に出される何かの味噌味が、すこぶる美味しくて、
楽しみでもあったが、それが「クジラの肉」だと答えを出したのは何年も経ってからである。
フグのお寿司も社長さんにご馳走になって、小倉では初物尽くしであった。
テーブルには好みのカップ麺が二種類買ってあって、
夜中に食べた空カップを幾つも重ね合わせて、競い合わせて山になっていたが、
オバサンはかなり変な人と思ったに違いない。
そんな中で、二十四時間のブルースシリーズを纏めたりしていた。
実際は四部構成なのである。 草々
〒 その 280 NHK行 2002年11月1日
前略 和歌山を後にしたのは5月の始め頃であった。
東京での音楽的生活に憧れていたし、
当時は二十歳過ぎのデビューなど皆無に等しかったから、
何かしら動き出したかったのである。
大阪まで出かけ、時間があったので、サウナに寄って、入ったのはいいのだが、
よく見るとお客さん一人一人にホットパンツのホステスさんが付いているのだ………美人の。
そそくさと出てきたが、ともかく大阪はオープンであった。
兄の部屋で何曲かデモテープを作り、ワーナーパイオニアに持っていったりしたが、
何処かで唄っていたほうがいいよというような返答であった。
私はアルバム志向であることを伝えたが。
あれもこれもとやりたい事が一杯あったが、お預け状態であった。
日雇いのアルバイトなどを、のんびりとしていたが、
ちょっと油断をすると日々の暮らしが追いかけ追い越してゆき、暮らしを立てる現実に直面した。
うまく言えないが、実家にいた頃は、衣食住の心配もなく、友人がいて、祭りのあとではないが、
一人になった時に、ぽつんとギターとノートがあり、その繰り返しで、
暮らしを立てる現実がおぼろげに見えてきた頃にも、ぽつんとギターとノートがあり、
そのまま旅立ったようなものであるから、後戻りなど考えた事もなかった。
冷凍物を倉庫に出し入れする仕事で、
真夏に零下二十℃ほどの倉庫に2・30分ほど入っていたが、帰りはふらふら状態であった。
その69の「真夏の最大のクーラーは真冬か」などという発想はここらあたりからの体験であろうか、
何でもやっておくものですね。 草々
〒 その291 NHK行 2003年1月18日
前略 75年夏頃、王子の兄の所にも居づらくなったので、
新聞の求人広告を見て、一番近い所に決めてしまった。
溶接の募集枠で、鉄工所であったが、迷ってはいられなかった。
当時は求人広告欄に写植という文字がかなり占めていて、
いつも「なんだべ」と思っていたが、それが後で仕事となるとは思ってもみなかった。
印字された原稿をレイアウトの指示通りに貼りつけていくのだが、
レギュラーの月刊誌が始まると、1・2週間は夜中の12時頃のご帰宅となるのである。
現在はほとんどパソコンで校了まで仕上げてしまうのでしょう。
埼玉県、鳩ヶ谷市周辺は宅地開発が進んでいて、分譲住宅ブームであった。
社長さんは営業上がりの人で、売りに出ていた鉄工所を200万で買取り、
営業の時の顔で、御得意さんも付いていたようで、人生の転機に乗った人のようであった。
従業員がみんな辞めてしまい急募だったらしく、
私には西川口の近くにアパートを一部屋あてがってくれて、
車の免許も負担してくれたりと、人の良い、いい社長さんであった。
おもにベランダ、門扉、アパートの階段、手摺などを作っていたが、
ベランダなどは、2・3日で覚えて作り始めていた。
何とかなれば、何とかなるもので、秋には兄の所へ借金を返しに行っていた。
アパートなどの棟上げの時に、ご祝儀袋を貰えるのですが、三つも四つも重なった時があり、
袋ごと親に送ったら、後の返事では、親父とお袋で食事に出かけたらしく、
たいそう喜んでくれたが、これが、私の唯一の親孝行らしき御返杯であったろうか、いたらぬ息子である。
テレビを見ていて思うのだが、泥棒をやって捕まる人間はごまんといるように、
盗作されて黙っている作曲者はまず、いない・・・のだから。 草々
〒 その296 NHK行 2003年2月22日
前略 西川口駅から、アパートに向かう途中にテニスコートやら、
野球グランドがあって、やはり都心とは違う印象があった。
出かけはしなかったが、オートレース場もあって開催日には爆音が聞こえてきていた。
アパート周辺には何も無く、月に一回は、駅に出かけていたが、
それも月刊誌のガロを買う為で、バスを利用するようになっていた。
女子高が直ぐ近くにあり、その向こうにNHKの広い所有地があり、
鉄柱が2本だけ、東京タワーほどの高さがあっただろうか、建っていた。
遠くから見ると巨大な梯子が対で並んでいるようであった。
あれが倒れたら私のアパートまで届くか、届かないかというほど高さだけは凄かった。
二階建てのアパートで、一階は大家さん一家が住んでいて、
二十代半ばのスラリとした娘さんがいた。
教習所に通う為、停留所で待っていたら、娘さんが寄ってきて、
プールへ行きませんかと言われた。
何でも凄く空いているからという事であったが、実際海水パンツが無かったので、
その事を伝えるとスッと離れていった。
今思うに、まるで事務的に伝言でもしたような雰囲気であったが、
その時は、大家さんの娘さんなので一礼して教習所で降りたが、それっきりである。
アーケード付きの小規模なお店が近くにあり、そこのキッチンで食事をしていたが、
珍しく女子高生二人が来ていた。
マスターに何やら煽てられていたが、やおらオッパイ見せてと言い出して、私に振ってきたのだ。
私は戸惑って下を向いてしまったが、ちらっと女子高生の方を見たら、何と、
赤面して下を向いていたが、たまらんほどの美形で圧倒されてしまった。
ここで整理。
●プールイコール水着イコール二人だけイコールプルンプルン。
● 女子高生イコールオッパイイコール見せて見せてイコールプルンプルン。
みなさん、くれぐれも甘―い話には乗り切らないように。 草々
〒 その307 NHK行 2003年5月10日
前略 西川口駅より遠かったし、職場が5分ほどであったから、
少し音楽を忘れ、仕事に専念しようと頑張っていた。
主に建築金物であったが、鉄骨の仕事が入って来ると、
何処からか職人さんがやって来て、請け負い仕事をしているようであった。
近所に三階建ての立派な新築住宅があり、
仕事の帰りに様子を見に入ってみたが、内装も済ませ、
ミニバーなどもあり、綺麗な造りであった。
鉄骨部分を300万で引き受けたらしく、社長さんはぼやいていた。
車の免許の方はまあまあスムーズに進んで、学科も一夜漬けであったが、
82点のギリギリセーフで合格、76年から無事故である。
じっくり音楽をやるには、まったく目まぐるしい環境であったが、
それでも振り返ってみると、75年の前後3年ほどに作詞のほとんどを形成、
集中しているといってもいいほどで、やはりいい旅であった。
対 影
夕暮れにもたれてタバコを吹かす 地球に大きな影が出来 私の前にも影が出来
待ってたように歩き出す 前になったり後になったり その人は忙しないが
足並みだけはピッタリ合わせ ともすると躓くのはこの私 車のライトは幻覚魔
私の前であなたは泳ぐ あなたの前で私が泳ぐなら 私はあなたの周りであなたになって
あなたの私はしどろになって あなたの足は私の足の隙間から 伸びているのはあなたの私
〜中略〜
煙は真っ赤に萎縮して道路にへばり付き 物凄い速さで猫が道路を横切る 影も残さず
そんなままならない孤独な時期の作品で、中略ですが、この詞にも曲が付いているのです。
一気に書き上げ、一気に曲を付けた作品で、振り返ってみると、
私の日本語歌詞付き即興曲の第一号であった。
サイケデリックなヤバ系の詞でマニア向きですな。 草々
〒 その314 NHK行 2003年6月28日
前略 埼玉では免許を取って直ぐに2tのロングを乗り回していた。
あまり物おじしない性質なのか、直ぐに慣れたが、ベランダの物干し部分を、
一人で横浜まで取り付けに行った時は、前の日からビビった。
首都高を通り、湘南までだったろうか、ほんの1・2時間の作業であったが、
帰り着いた時は夜の10時頃で、次の日は休ませてもらった。
このトラックの荷台には、七つ道具の屋外用溶接機と、ガスボンベが乗っかっているのだが、
私は訓練校の溶接科を出ているので、両方とも免許を持っていたが、
鉄工所あたりでは持っていない人の方が多いくらいである。
下向き・縦向き・上向き溶接で3級・2級・1級となっている。
もちろん私は3級熔接士である。
原子炉あたりの熔接になると、新たに別個の免許が必要になってくる。
この頃、何故かエレキが弾きたくなり、実家からエレキとアンプを送ってもらった。
このアンプは高さが1m近くもあり、すっげー音なのだが、
もちろんフルで鳴らせる環境には置かれていない境遇であり、直ぐに止めてしまった。
練習もせず、下手な割には物持ちだけはいいのだが、やはり大音響で、
確かめて確認出来るフレーズもあり、だったらヘッドホーンで、という手もあるが、
それはそれである。
1万円もかけて送ってもらい、ほんの半フレーズだけ、鳴らしたきりであった。
工場の二階に幼稚園位の男の子がいて、何時もゲイラとかいう洋凧を持っていたので、
「凧ばかり揚げるていると、仕舞いにタコになっちゃうぞ」とからかっていたが、
自分でも可笑しくなり、二人で笑ったものである。 草々
〒 その324 NHK行 2003年9月6日
前略 74年の1年間は、思い付くままに詞を書きなぐっていたが、
埼玉に居た75年は、兄にも「今年の1年は凝縮した詞を書く」と宣言したとおりに、
少なめだが中身の濃い詞を書いていた。
そんな中、鉄工所の仕事中にアクシデント(悪魔の悪戯)で、
足の親指を鉄の梁に挟む怪我をした。
作業靴を脱いで、靴下を取ると、爪の隙間から血がどくどくと出てきた。
社長の車で病院へ行ったら、ヒビが入っているとの事だったが、
幸い爪がガードの役目をしてくれるらしく、手当てと薬だけで帰された。
社長「注射しないんですか?注射…注射」
先生「どうして注射しなければならないの?」と社長は変な会話をしていた。
2・3日休んで、仕事には出ていた。
北海道に居た頃は、毎月のように熔接で火傷をしていて、
治ったと思ったら別の所がまた火傷で、手足に今でも一円玉弱の後が残っている。
お袋は会社辞めて高校へ行きなさいと言っていたが、後三年間、机にへばり付いて、
回りがみんな年下と想像すると、うんとは言えなくなってしまった。
溶接機の2百ボルトのヒューズを取り替えている時に、感電(悪魔の悪戯)した時は、
流石に感電したと思った。
何度も意識を確認している時に、ふらふらと綿の上でも寝転びたい感触に至り、
ふらふらと外に出て寝転んだ。
一瞬、視野がモノクロに見え、鼓動が激しかったが、序々に治まった。
何故か世の中が明るくなった気分になった。
熔接棒を潰して作ったドライバーだった為、被覆剤(粉のようなもの)が付着していたので、
電流が最小限に留まったのであろうか。
私と同じく入った同僚も感電したが、腕を曲げていたので、指から入って、
肘に貫けたらしく腕に穴が開いたと言っていた。
2百ボルトは半端じゃござんせん。
埼玉は76年の春には引き払って、東京の調布に移り住んでいた。 草々
〒 その337 NHK行 2003年12月6日
前略 76年の初夏に埼玉を引き払い、吉祥寺を目指したが、
都合で調布になってしまった。
多摩に住んでいた友人から車を借りて、三鷹駅、吉祥寺駅、
調布駅を三角にした丁度真ん中の深大寺に落ち着いた。
調布側はまだ林や畑なども多く、調布飛行場まで、そんな感じだった。
広い土地を持った造園業宅の車庫を造りに行った時に、
その外れの雑木林に鎌倉街道の道が通っていたらしく教えてくれた。
わずかに一間程の幅の道が数メートル程、確認出来た。
教えてくれなければ分からないほどの、道らしき道であったが、
その役割も終え、私有地の片隅に埋没しようとしていた。
まぁ鎌倉街道は舗装されて残ってはいますが、
「いざ、鎌倉へ」と言う位で、繋がっていたんでしょうね。
ここには三年程居たが、深大寺にも詣でず、
有名な深大寺そばも二年程してから、食べにいったほど無頓着であった。
普通のモルタルアパートであったが、キッチンが三畳ほどあって、庭付きの一階であった。
テレビも無く、旅立って三年程はテレビからの情報も皆無であったが、では、
暇な時は何をしていたかというと、本を読み漁っていた。
小説などを読み、活字から、総てを連想して、人様の人生に触れ、
自分なりに解釈して、自分のペースで読みふけっていた。
本を読むという事が、想像力を養うのに一番最良だと思う。
そういえば、小学六年の時、「かえるのへそ」という、童話を作り、先生に見せたところ、
発奮して、図画の時間を割いて紙芝居作りに発展した事があった。
筋書きも思い出せないほど、くだらない話だったが、出来上がり、
他のクラスに見せに行くよう言われた時は、心底、恥ずかしかった。
抗議文もその類だが、それでも長く続けられるのは、本を読んでいたからであろうか。 草々
〒 その349 NHK行 2004年2月28日
前略 77年の調布に居た頃、一度ラジオ番組に出演した事があった。
フォークビレッジという15分番組で、一般から曲を募り、評価されると、
スタジオでアレンジした曲を録音し、番組で紹介するのである。
私には始めてのチャンスであったが、積極的に売り込むどころか、ぶっきらぼうであった。
番組で推薦されたはいいが、幾ら待っても連絡がこず、2カ月ほどして、こちらから電話して、
やっとスケジュールが決まったようであった。
推薦曲の他にオリジナルを一曲唄う時も、いやいや唄っているふしがあり、勉強不足であった。
兄にも「何にも喋らないんだもの」と番組内容を一喝された。
しかしこういうメディアと一般の見える所での音楽を、
同じミュージシャンが取り上げて評価して取り持ってくれるのは、今でも有効であるが、
その裏の裏では、その新人の楽曲を食い物にしているレコード会社もあるのだから、
どちらも勉強不足である。
「逆回転曲には利益が入らない」という仕組みにしない限り、音楽の前途は多難である。
二束三文で作らせて莫大な利益を貪っているのである。
「サルに自家発電を教えると死ぬまでやっている、
何故って羞恥心がないから」という例えであろうが、指摘があって笑ってしまったが、
アイドル爺さんに盗作を教えると死ぬまでやらせているし、ポチは死ぬまでやっているし、
レコード会社はその巣窟なのである。
前にも書いたが、二十年も三十年もやっている天然記念物がいるのだから、
一度、試験をやらせたらいい、多分、音が見えなくなっているのではないか? 草々
〒 その 371 NHK行 2004年7月31日
前略 調布には80年の秋頃まで4年余り住んで居て、
それまでの慌しい旅程とは違い、じっくりと腰を据えていた。
「空の上に畳を敷いて」「打出の小槌を隠したね」おなじみ、
「海の底に隠した宝物」などのメルヘンチックな、らしい詞を完成させていた。
小さな鉄工所の私を含め従業員二人という末席にいて、
仕事が暇になってくると何かと口実を作っては大量に休みを取っていた。
大きな会社に勤めている人には考えもつかない事でしょうが、
家族的な小さな会社での利点といえば利点でしょうか。
クビーとは言われずじまいであった。
私は詞を書き出す場合、大量の時間を確保するタイプなので、いい感じではあったのです。
その頃は三島さんの小説をむさぼり読んでいて、「獣の戯れ」などは、
とても繊細な神経でなければ書けないだろうなと思ったりした。
魯迅はずっと後に読み出しましたが、やはり魯迅の「故事新編」・
芥川の短編・太宰の「新釈諸国噺」・三島の「近代能楽集」はいい流れであり、
この後に続く文豪に期待したいところであるが、生きているうちにこれだけ読めただけでも幸福であった。
上記の詞もその発奮の表れであろうか、
「心象童話集」「心象神話集」として編集していますが完成させずじまいである。
昭和初期頃、杉並区の荻窪あたりは一面麦畑だったそうで、
東京湾の埠頭から汽笛の音が聴こえてきたそうである。
現在は、騒音にかき消され、ビルに反射して聴こえて来ないでしょうが、
井伏さんの随筆からは幽かに聴こえているような。 草々
〒 その 378 NHK行 2004年9月18日
前略 調布に居た頃は、閑静な住宅街であった。
木造アパートの一階で、台所とトイレが付いて、居間と仕切られている部屋であった。
風通しが良いのが好きで台所の窓や、トイレの窓に網を張って開けっ放しであった。
居間の引き戸は網は貼れないので少しだけ開けていたが、
お客さんといえばゴキとトカゲと鈴虫と隣のチビ白猫がやって来ていた。
入居して早々の頃、トイレでぼんやり用をたしていたら、
目の前の中央階段からプルンプルンのミニスカートのレディが降りてきて度肝をぬかれた。
如何せんこちらは裸同然なので、一瞬ビビって、いい眺めどころではなかった。
白昼夢のようであったが、しかしそれっきりで1度きりであった。
逆算して冷静に考えると、ギャーギャーうるさい某テレビ局の「仕込み」だったようである
兎も角、未発表曲を逆回転曲にはするが、声は掛けないという紳士振りである。
であるから、いつまで経ってもまともに知恵を搾り出すと言う事がお留守になり、
自ずと裏仕事が多くなる、未だに逆回転曲の氾濫である。
例えば、女漁りの合間の僅かな時間を割いて、ちょろっと逆回転した曲が音楽シーンを飾り、
賑わし、それが業界ぐるみとなるから、女、金、名声、或いはその総てであり、
それをみんなで楽しんでいるという按配である。
彼等の意識はものすごい自己中であり、社会面を賑わしている凶悪殺人鬼と大差ないようである。
しかし自己中ほど人生を2倍も楽しめていないのであるが、それが分からないのが、
自己中のツレーところである。
それが分かる頃には回りや他人が大変な迷惑を被っているという事である。
この頃は10万前後で生活していたが貯金もせず、毎週、街に出れば1万近く使っていた。
横浜の兄の所で当時を振り返り「いや、まいったなぁー」などと笑い飛ばしていたが、
「吉田さんも成り下がっちゃって、しょーがねーなー」とも吼えていた。
ところでこの「成り下がる」、web辞書にも載っていますが、たぶん私の造語だと思う。 草々
〒 その 384 NHK行 2004年10月30日
前略 78年か、79年頃だったと思うが、夏が無かった年があった。
私が住んでいた東京では、連日の曇り空と雨で、空を見上げればどんより雲が覆っていて、
それがひと夏を経過して、まるでロストワールドを感じさせた。
調布のアパートの部屋は壁や天井がカビだらけになって、その痕跡を残したほどだった。
その頃だったと思うが、実家から突然100万円送って寄こした。
なんでも私名義の10年保険が満期になったので、
歯でも直しなさいという事で送ってくれたのであった。
虫歯が酷く、旅立つ前あたりがピークであったが、
かまわず出かけてしまった経緯があり、和歌山でも前歯を抜いた状態であった。
仕方なく出掛けたが、治療の途中、昔の詰め物から脱脂綿が出てきたりして、
「昔はこんな事していたんだなぁ」と助手の人と呟いていたが、明らかに手抜き行為である。
中学生の頃に、ドリルを前歯に引っ掛けてキズを付けられた事があった。
「おっと失礼」という言葉だけは覚えていたが、それに気づいたのは虫歯になってからという事である。
みなさんも気をつけたほうがいいです、歯科医というのは以外と血の気が多いようです。
さらに今回は差し歯を入れるのに隣の歯と色合わせをしたにもかかわらず、
出来上がった時は違う色であり、其の儘である。
みなさんも気をつけたほうがいいです、歯科医の女デブ助手というのは以外と血の気が多いようです。
この時は70万位治療費がかかり、虫歯と歯医者には昔から泣かされっぱなしである。
100万円手にした時は、歯医者に行かず、そのまま「作詞体勢に突入」を夢見た、
何しろあの頃は絶好調であったから。 草々
〒 その 389 NHK行 2004年12月4日
前略 調布でのロストワールドを感じさせた70年後半の頃、夜中に雷が落ちた時があった。
かなり近くに落ちたようで目が覚めたほどである。
朝の出掛けに回りを見渡し、空を見上げたら電柱のてっぺんで作業員が何かやっていた。
「雷落ちたですかぁ?」「…いや…」休める事無く作業を続けていた。
空を見上げ口が開いたついでにボソッと言葉になって出てしまったが、それほど強烈な衝撃であった。
この世で一番でかい音を鳴らすのは雷様なのである。
そんなある日、洗濯場のトタン屋根をパタパタ歩く音がして覗くと中型の茶黒のチビ猫が居た。
おいでと言うと寄って来て直ぐ懐いたが、目の下にコインほどの禿げがあり、しょぼくれた猫である。
隣のチビ白猫は引越ししてしまい、猫に触るのは久しぶりであったが、飼う気などはなかった。
玄関に腰を下ろして撫でていたら、またまたトタン屋根をパタパタ歩く音がする、見ると怖そうなノラである。
あまり怖そうなので、チビを差し出し、さっさと玄関のドアを閉め部屋に入ってしまった。
しばらくすると、10cmほど開けている裏庭の引き戸からニャーと一声鳴いてチビが入って来た。
何とアパートを一周して来たらしく逃げているようであったが、無常にも玄関から出したが、
また入って来たので、ブイブイ言いながら手足を拭いて置いてやった。
飼い猫だったのか分からないが、落ち着き払って部屋の隅で丸くなっていた。
腹が減ったら外に出掛けるべぃと思っていたのである。 続く
〒 その 397 NHK行 2005年1月29日
前略 調布での猫と私の関係はというと、可なりあっけらかんとしていた。
仕事から帰ってきて、一撫でしたら、ほったらかしであり、
チビの方も昼間は外で動き回っているのか、部屋では、隅で丸くなっていた。
三・四ヶ月位のオスだかメスだか判らない猫で、ジャレない、鳴かない、
もったり歩く、空気のような存在であった。
何日か過ぎたある夜、何時ものようにベッドで横になり、
水割りを飲み本を読んでいると、ふとチビが居る事を思い出し、ひょいと見るとチビが居た。
まったく忘れていて4・5日振りに見る顔で、
別段広い部屋に住んでいる分けではないのだけれど、そんな調子であった。
流石に最初はミルクなりおかずなり与えていたが、口を付けないので、止めてしまった。
家具屋さんの鉄骨増築の時に貰ったシングルソファーをあてがっていたのに何故か、
下に降りて隅で丸くなっていた。
ある夜、何時ものように水割りを飲んでいると、珍しくチビが部屋の真ん中にいて、
じーっとこちらを見るともなしに見ていた。
おいでと言うと、もったり近くに来たが、それ以上は近づかず、ジャレてはこない。
どうにも目の下のコイン禿げが気になって、抱きかかえる気にはなれなかったが、
引っ掻かれたにしては丸いし、擦りむいたにしても眼と口の窪みだし、
皮膚病ではないかと睨んでいたが、この間検索したらやはり皮膚病であった。
傷薬をティシュに付けてチョチョッとあてがってみたりして、滲みるかなと思い、
直ぐに止めたが、そんな一連の動作時も、ジーッとしているのである。
「好きなようにお触りして」という感じである。
仕事から帰って急いでトイレに駆け込み、
ほっと息をついたら「ニャー」と入って来てまたまた慌てるはめになった。
チビの奴、チビの奴、チビの奴、人の尻の穴見やがって。 続く
ちょっと気付いた事がある。
一心不乱に駆け込んだ時に私は「チビるチビる」と叫んでいたのかもしれない。
………それでチビが……… ご主人思いの忠猫に訂正。 続く
〒 その 401 NHK行 2005年2月26日
前略 調布に住んで2・3年頃からお酒を覚えウイスケに落ち着いて、
たっぷりと飲んでいた。
と言っても直ぐに酔う体質でストレートならコップ一杯程度だろうか。
酔っぱらっては寝ているチビの所へ行き、見下ろしながら足で「ウリィウリィ」と撫でていた。
手頃なところでホワイトとブラックがあったが、
私は黒が好きなのでブラックを選び、たまーに「オジサン(角)」を、
たまーにたまーに「ダルマさん」を口の中で転がしていた。
寝酒にかこつけて9時を過ぎてから急激に飲みだして、ベロンベロンになって眠っていた。
後で知り合いから「お酒の飲み方も知らないのか」と言われてしまったが、
晩酌をするほど呑み助でもないし、眠れればそれで良かったのであるが、
何故か9時頃からが9時前に、やがてもっと早くに飲み始めていった。
可笑しな話ではあるが、時々二日酔いのまま仕事に出掛けていたが、
遅くても正午の時報とともに酔いが消え去っていた。
若さだと思うが、午後に引きずるという事はなかった。
音楽の躍動的感覚から離れ、明日の為の一杯ではあったが、
それでも酔っ払っては「酔い日記」を書き綴っていたのだから、創作意欲だけは留まることはなかった。
手元には無いが今読み返してもかなり面白い内容で、
お馴染み「とってもありがとう」「マッチ擦人形」などは酔い日記からである。
ある夜、そんなベロンベロンになって眠っていた明け方、「ゴロゴロゴロゴロ」という物凄い音がして、
「うわーっなんだー」と、もがきながら目が覚めた。
何のことは無いチビが耳元でゴロ巻いていたのであるが、
酔っ払って眠って居る時に聴こえて来るものだから物凄い音で聴こえたのである。
雷様が落ちたと思ったです。 続く
〒 その 408 NHK行 2005年4月16日
前略 ところで猫のチビが居候を始める前に、私は一冊の文庫本を読んでいた。
内田百關謳カの「ノラや」である。
野良猫が庭に住み着き、そして飼い始め、やがて何処かへ行ってしまう話であるが、
情感たっぷりに綴っている。
ただし何処かへ行ってしまった後の百關謳カの未練たらしさが、尋常ではなく、
気の毒になるほど後を引いてしまい、私など、
文庫本を縦に横にして何度も何度も読み返したほどである。
もちろんノラが帰って来てくれないかと言う切なる想いである。
小学生の国語で志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」にふれて、
やはり釈然としない寂しさを感じたものだが、リアリティの巧みさであろうか。
同じく直哉の「小僧の神様」に太宰が噛み付いていたっけ。
「ひとにものを食わせるというのは、電車でひとに席を譲る以上に、
苦痛なものである〜」
こうなるとものを書く姿勢まで問われているようで、それはさて置き(笑)
うちのチビはというと、飯も食べず、鳴きもせず、茶黒の猫だから、部屋の隅で、
木炭の塊のように丸くなっていた。
例の足で猫のお腹を「ウリィウリィ」も実は百關謳カの受け売りである。
飼い始めの頃、風呂場の温かい所で寝ていたノラに足袋で「ウリィウリィ」と、
家の主らしい挨拶をするのであるが、その距離がたまらなくいい。
黒澤監督も映画「まあだだよ」にしていて、人となりはご存知の方も多いと思うが、
かなりおかしな人でもあったらしい。
うろ覚えであるが、煙草を一列に並べて「1番先に吸われたいのは誰かー」とか叫ぶらしい。
井伏さんのテレビ出演での話では、文壇の会合があると、
必ず誰それに噛み付いては会合をぶち壊しにしてしまうらしいのだが、
一幕、雷様の話をし出すと、はたと箸を置き膝を正して下を向き、シュンとなっちゃうそうなのだ。 続く
〒 その 409 NHK行 2005年4月23日
前略 どう言う事?と言われても説明のしようがないほど「おかしな人」なのである。
井伏さんも笑いながら強調していたが、「おかしな人だよ〜」が1番、端的に語っている。
私は何となく分かるのである、と言うのも中学の同級生にも似たような人が居た。
学校では暴れん坊なのだが、放課後、私服になるとメチャクチャ大人しい。
その事に気づいて学校で指摘すると罵られるが、放課後、休日の時は照れ笑いするのである。
くすぐったくなるほどクエスチョンマークであるが、
もちろんみなさん社会に害を与えるような人達ではない。
サイダー工場の営業のオジサンの噂話では、曇り空の日は機嫌がいいが、
晴れの日は機嫌が悪いのだそうだ。
子供心にその訳の分からないジョークがおかしかった。
思うに、昔は何かしら規律があって、父親の威厳、
男の威厳がまだ幅を利かしていた頃の副産物ではないかと考えてしまうが、
現代のように何か置き忘れて見失なって来てしまった時代からでは、キレた話題ばかりである。
人間というのは、美しい夜空と、そして美しい青空を確認する為に生まれて来るのではないだろうか。
それ以上は望まなくても別にいい事なのだ。
大宇宙の入り口を夜空の大パノラマで観る事ができ、そこには嘘や誤魔化しなど一つも無く、
ありのままの姿を伝えている。
宇宙分の一の地球の住人としては、そう考えないとやりきれない。
チビであるが、それからまもなく食堂街に連れて行き放してやった。
車に乗ったのが始めてだったのか、ドアを開けたら一目散に走っていった。
百關謳カの「ノラや」がどう作用したのか分からないけれど、
その百關謳カの本も一冊きりで止まってしまった。
老眼めがねを掛けるようになったら全集を読もうとは思っています…が…まあだだよ。 草々
〒 その 418 NHK行 2005年6月25日
前略 調布での地域密着形の仕事は、夏は暑く、冬は寒かったが、
周りがいい人が多かったので、のほほんと過ごしていた。
会社の車で通勤(10分程)していたので、楽といえば楽であったが、駐車料金は自分で払っていた。
親方は負担すると言ったが、私は休日にも使わしてもらっているのでと言って遠慮していた。
この頃はまだ私も世間慣れしていなかったようである。
主に門扉・ベランダを製作、現場に行って取り付けまでの作業であったが、
2・3年して70年も後半の頃、親方が鉄骨の話を持ってきたので私は飛びついた。
物が大きいだけで図面通り、寸法通り作れば良いのであって、びびる事はなかった。
最終的には回り階段まで作らせてもらったので、鉄工所での仕事では悔いは残っていない。
二階一部三階などの新築を2・3、増築もその位携わった。
面接の時、チラッと部屋の額縁に目がやったら、なんと親方は柔道五段の人であった。
従業員は私と以前から居るおじさんの二人だけであったが、
私と同じ頃入所して来た変なおじさんとおじさんの会話では、
おじさんには年頃の娘、三姉妹がいるようであった。
何かわざと引き出させて私にも聞こえるように擦り込まれた感があったが、
この変なおじさんは直ぐに辞めていったし、私も、のほほんとしていた。
何処の工場にも1人位は居るような仕事だけをしている、
世間話もしないような善良なおじさんであったが、歳(50代)のわりには爺さんに見えた。
私も無口だし、逆に歳が離れているから馬が合ったのか、不愉快な事はなかった。
親方(40代)がおじさんと紹介してくれたので、おじさんと呼んでいた。
取り付けでは私の運転で出掛け、サッサと終わらして帰って来るのが日常で、
そんな良い相棒が何年も続いた。
ある年の初め、初荷を取り付け終わった現場で腰を下ろし二人で日向ぼっこをしている時、
あー今年もこのおじさんと一緒に仕事かぁと思ったら、穏やかーな気分になってしまった。
人生において、あれほど笑った事はないという話がこの時期であった。 続く
〒 その 423 NHK行 2005年7月30日
前略 調布でおじさんと働き出して1年程してからであるが、
おじさんは毎日仕事の帰りにおかずを買っていくらしかった。
何を買っていくのと聞くと、うんにゃあ鰯と答え、家族の分もかいと聞くと自分のだけらしく、
それで共働きらしいので、訳が分からなくなってしまった。
更に自分で弁当を作っていると聞いて、私は声を出して笑ってしまった。
三姉妹居る事は聞こえ知っていたので、女性4人に囲まれて、なにか孤立感を感じた。
それからしばらくして、車での通勤途中にコンビニが出来たので、
私もオニギリを買っておじさんと一緒に昼食をするようになっていた。
そういえば何時も弁当に鰯が入っていて美味しそうに食べているので、
ある日ちよっと貰って食べた事があるが美味しかった。
絶妙の味付けである。
魚の値段も、良し悪しも私は解らなかったが、
流石に鰯は出汁魚(だしこ)ではないかと思っていたのに、その時の鰯は美味しかった。
そんな昼時に娘さんの話になり、長女が推薦入学で高校へ行っていたとかで、
頭がいいんだねぇとか話している時であった。
何気なしに名前の話になり、
聞いていると、長女はキノエといって坊さんが干支から選んでくれたとか言っていた。
「へーっ、めずらしい名前だね」
「うんにゃあ」(とは言っていないがそんなニュアンス)
「次の子は?」
「花子」
「ギャハハハ ギャハハハ ギャハハハ」いわゆる馬鹿笑い。
「にゃあ」
「ギャハハハ ギャハハハ ギャハハハ」見当がついてしまったので。
「・・・・・」
「ギャハハハ ギャハハハ ギャハハハ」なかなか止まらない。
「ギャハハハ そ ギャハハハ それ ギャハハハ」それってと聞きたいのだが。
「ギャハハハ ギャハハハ ギャハハハ」笑い収めするしかすべがなかった。
その後「それっておじさんが付けたんでしょ」と事後検証して、さらに馬鹿笑いが続いた。
ジョークの基本をたっぷり満たしながらもジョークではないおじさんに、
別にいいんだけど・・・悪くはないんだけど・・・もう・・・と言ってお腹を抑えながらその場を締めたが、
おじさんはそんな人であった。 草々
〒 その 443 NHK行 2005年12月17日
前略 調布での20代前半を終わらせて後半に進みたいのだけれど、
何といっても私の青春時代である。
まだ何かなかったかなと何とはなしに愚図愚図している。
当時は映画をよく見に行っていて、三鷹には三本立て映画館が二件あり、
吉祥寺には現在のパルコの辺りに東映がまだあった筈である。
込み入っていて道路側には入り口が無く、偶然に細い路地裏を歩いていて見つけた次第である。
吉祥寺も私鉄沿線の駅のように駅前広場が無く、駅ビルのロンロンで客足を捌いているようであったが、
駅周辺はいつも混雑していた。
ところで、それから5年位して横浜にいた頃、
会社のつまらない資格試験取得で半日川崎にお邪魔した事があったが、
以外や以外、古い宿場町であるからそれなりの様相をしているのだろうと思っていたら驚いた。
駅前は広くて洒落ていて、東口の道路沿いも細に微に調和を感じさせ、
ちょっとしたカルチャーショックを受けて帰って来た。
ちょっと可愛いらし過ぎな気もしたが、これだけアーチステックな試みを受け入れている行政に脱帽もした。
何よりもあんまり以外だったので次の日、会社で声高に興奮を伝えたが、余り興味が無いようだった。
これでも旅をしていて、駅前はかなり観てきた方なので言えるが、日本駅前100選には入りますな。
それから5年位して、東京には戻って来ていて、吉祥寺にも時々足を運んでいたが、
とうとう吉祥寺も駅前にスペースを確保してとりあえず駅らしくなった。
何故かホットした次第。
その頃(70年後半)に観たリバイバル映画で1番興奮したのが、「Z」というサスペンスの洋画。
政治的理由による計画的な暗殺を、一人の検事、新聞記者等が絡んでゆく、実際にあった事件の映画化。
小さく小さく紹介された検事がストーリーが進むにつれどんどん大きくなっていき、その権威に圧倒されてしまう。
先輩の検事が彼の将来を心配し、忠告するほど緊迫してゆく。
あたかも人間として当たり前の決断が、背伸びしても届かない高みに追いやられる中で、
愚かな事がたやすく身を屈むだけで届いてしまう無常さにラストはしんみりとさせられた。 草々
〒 その 454 NHK行 2006年3月4日
前略 調布に居た頃はもっぱら文庫本を読んでいて、
早く気ままに単行本を買って読めるような身分になりたいなと思ったりした。
ところでこの頃は本当に便利である。
ネットで検索すると杉並区内の全図書館の書籍を調べる事ができて、
貸し出し受け取りが近くの図書館で出来るのである。
で、20代の頃、なんで図書館利用しなかったんだろう、などと思ったりしたが、
まったく考えていなかったし、書店での行き当たりばったりである。
行き当たりばったりといえば、その頃、蟻んぼの大移動をばったり目撃した。
住宅の並ぶ私のアパートの近くに一反ほどの畑があり、
その車一台ほど通れる畦道を歩いていて通り過ぎようかという時に、異変が起きた。
地面がもぞもぞ蠢いていて、驚いて飛び跳ねるように通り過ぎ、
振り向いて確認したら、なんと白いタマゴを抱えた蟻が、
ジュータンのように畑から畑へ畦道を通り移動しているのだ。
その数は半端ではなかったが、タマゴを抱えていなかったら気がつかなかったかもしれない。
その白が、まばらに、微妙に、蟻の速度で、しかもよく見ると一生懸命に、
一心不乱に移動していたので、なかなかその場から離れられず、眺めていた。
蟻の引越しというのは聞いた事がなかったので何処から?何処へ?と気になってしまった。
畑といってもその場所は原っぱだったので丹念に調べて左右それぞれ10m間隔に巣穴があった。
かなり愉快な気分になってその場を離れたが、それから随分経ってからテレビで蟻の生態番組をやっていて、
話では蟻は他の集団に攻め込んでタマゴを奪う習性があるらしいのだ。
とすると私はその犯行現場を目撃した分けである、まるで音楽業界のような悪い奴等である。
ある日ヘアーが薄くなっていて、なんだべと思っていたら、しまいにはちょぼちょぼになってしまった。
催眠ガスでも使って寝ている時に毟り取っていたのであるが、集団になると業界というのは病的な輩なのだ。
と、いうように聞きたい事は山ほどあるのである、明るい市民生活の為に。 草々
〒 その 470 NHK行 2006年6月24日
前略 自分の半生を振り返ってみて、やはりあの時が恋に落ちた瞬間だったんだな、
と言える、くすぐったくも切ない青春の思い出がある。
手痛い目に遭うと免疫が出来るのか、その後は素敵な人を見かけても恋に落ちた事はない。
彼女とは1度きりの出会いで、何も無かったし、言葉も交わさなかったし、
ほんの1分ほどのどこででも見かける売り子と客の一期一会であった。
当然向こうにとってはただの行楽客であり、記憶の片隅にも残っていない筈だが、
私の方は一瞬にして恋に落ち、ポーッとなって2週間ほど仕事も手に着かず、
恋煩いという雲を掴むような浮遊状態で時を過ごしていた。
おまけに帰り道に会社の子が何気なしにポラロイドで、
その恋に落ちた劇的な私の横顔を写したので、いつまでも記憶に残る初恋になってしまった。
79年頃、調布での鉄骨の仕事にも慣れて来た頃、会社の子とも慣れ親しんでいた。
中3の長男がアパートに泊まりに来るというので、そりゃ冷蔵庫しかないので、マズイと思い、
エスケープを試みて三鷹に出来たばかりのカプセルホテルへ案内した。
当時はウイスケを飲みながら本を読むのが夜半の日課だったので、うっちゃらかしてふけっていた。
確か読んでた本は開高さんの「白いページ」だったと思う。
井伏さんが朝釣りに出かけて落ちて溺れていたが、
リュックが浮き袋代わりになったとか、冗談半分のページを覚えている。
それから暫くして小5の次男と中央自動車道に乗って富士急ハイランドへ出かけた。
雨上がりだったのでお目当てのシャトルループに乗り損ねて、替わりに恋に落ちてきたのである。
二人でお土産品を見ている時に遥か向こうからシンパシーを感じて、近づいた瞬間にもう虜になってしまった。
しかし自意識過剰の私は言葉一つかける事も出来なかった。
突然話が30代の頃になるが、富士登山に行くのに新宿から中央高速バスに乗っていて、
富士吉田市にさしかかった頃に同乗のオバサンの声で「元気に暮らしている」と耳打ちされた。
もちろん知らないオバサンで私の場合はいつもこういうシチュエーションである。
初恋が大人への階段だとしたら、やっとこ登ったのかもしれない。
どんな女性だったかって?そりゃ一瞬にして恋に落ちてしまうほど素敵な人だった。 草々
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