トップページ 95年 96 97年 98年 99年 00年 7月 01年 7月
Eメール
7月 03年 7月 04年 7月 05年 7月 06年 7月
07年 7月 08年 7月 09年 7月 10年 7月 11年 7月
2012年 7月 13年 7月〜___ 7月 15年7月16年7月
2017 7月 18年〜 7月 19年 7月 20年 7月 21年 7月
2022年 7月 23年 7月 24年 7月

201

 その 863 NHK行 2014年1月4日
空の上に畳を敷いて (1978年)

空の上に 畳を敷いて
寝っころがってみたい
生まれたばかりの 空気を吸って
ううん いい気持ち とっても
いい気持ち

雲がもくもく体を くすぐるので
私は眠れない

空の上に 畳を敷いて
窓を付けて寝たい
雲が畳を 持ち上げてるようで
ううん いい気持ち とっても
いい気持ち

雨がザァザァ 寄せて来て
私は溺れそう

空の上に 畳を敷いて
屋根を架けて寝たい
聴こえてくるのは 優しい声
ううん いい気持ち とっても
いい気持ち

眠りの精が変に 抱きしめてきて
私は眠れない

空の上に 畳を敷いて
二部屋にしたい
あなたそっちで 私こっち
ううん いい気持ち とっても
いい気持ち

広い大空の 雲に抱かれて
やっと眠れそう

 その 864 NHK行 2014年1月11日
前略 2013/11/17 韓国、慰安婦問題の拡大指示 米西海岸で戦略的展開
                                 産経新聞 11月10日(日)
 米カリフォルニア州グレンデール市に今年7月、
韓国以外で初めて「慰安婦」像が設置された問題に関連して、
韓国側が10月下旬、米西海岸の主要都市の総領事らに、
今後も積極的に慰安婦問題を米国社会でアピールしていくよう求めたことが9日、分かった。

 関係者や韓国メディア「コリア・タイムズ」によると、韓国国会外交統一委員会に所属する国会議員らが、
米国西部を対象に国政監査を行うため10月27日、在ロサンゼルス韓国総領事館に、
ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルの総領事を集め、慰安婦問題を国際人権問題として扱うよう指示した。

 議員らは「日本は慰安婦の歴史を歪曲(わいきょく)し、
慰安婦を韓日間の問題で収めようとしている」「この問題は人権と人類に反する国際問題だ」と主張。
問題を拡大させていくため戦略的に対処していくよう指示した。

 議員らはさらに、グレンデール市のウィーバー市長が日本のインターネットテレビに、
「像設置は間違っていた」と語ったことを批判した。
市長は産経新聞の取材にも「日韓の問題になぜグレンデールが首を突っ込まなくてはいけないのか」と答えているが、
議員らは「領事館の立場を同胞(在米韓国人)社会にしっかり説明し、理解を求めなければならない」と強調した。

 総領事の一人は「慰安婦問題は国際社会が憂慮する人権問題であるにもかかわらず、日本は否定し続けている。
被害国としてわが国(韓国)の立場を説明していく」と語ったという。

 カリフォルニア州では、ブエナパーク市やアーバイン市でも慰安婦像設置の可能性が指摘されている。

 監査した議員らは、現地の在米韓国人や韓国系米国人のコミュニティーと連携しながら、
「米国市民レベルでの草の根運動」を促すとともに、親韓派の養成も求めている。


「慰安婦を韓日間の問題で収めようとしている」
「この問題は人権と人類に反する国際問題だ」と主張。

 国際社会ではバランス感覚が重要であるが、何ともはちゃめちゃである。

併合前の朝鮮の女性達には名前すら無かったのである。
その時期にたまたま無かったのではなくて、数千年の半島の女性に対する扱いである。

そんな民族が、人類に反する国際問題だ、そうだ。
おいおい尻尾が見えてるぜ」である。

べつに慰安婦をいっぱい集めたから戦争が始まった分けではない、
とりあえず慰安婦も含め、戦争によって被害に遭った人は数知れず、二重三重の苦労した人も数多い。

その補償を個別に、という日本政府の申し入れを蹴って、
韓国政府が纏めて受け取ったのを忘れたはずはないだろう。

国際問題どころか半島の半分国の問題である。                              草々

 その 865 NHK行 2014年1月18日
前略 2013/11/24 政教分離
41年目ユーミン、"若返りステージ"  デイリースポーツ 11月20日
 シンガー・ソングライターの松任谷由実(59)が、オリジナルアルバム「POP CLASSICO」
を引っ提げてスタートする20日からの全国ツアーで"若返りステージ"を披露する。

初めから責任感はありませーんと謳っている」政党のお仲間である。
ステージでは盗んだ曲のオンパレード、客席は層化と在日がうじゃうじゃ、
一般人を巻き込まんように。

現状を鑑みて公明党は解党が妥当である。

 実社会の緊張から放れた個人の趣味の世界に、社会の仕組みを合わせてる分けにはいかない、
政教分離、神道は不動である、層化信者のようにあっちこっち移動したりはしない。

即刻、勧告をして選挙の開票時には公明議員の票は総て破棄にする事まで告げる、
層化有権者は少し真面目な投票をしてくれればいいだけの事である。

 四の五の言い出したら、これまでの不正行為を一斉に一気に白日の下にさらけ出したら良い。
私のように。

その後、総理に尻を押されて9月に公明代表がアメリカに渡ったが、誰一人会う人がなく、
帰ってきてから、バツが悪いのか「早急に何でも決めるなー」と、吠えていた。
この人、信者あがりそのものではないですか。

バッキャモンに取りつかれた相手の会話は総て筒抜けです。
目を盗みます、文字をおこした内容を読み解きます。
今年7月の掲示板の投稿規制もバッキャモン経由です、今もざわついている。

バッキャモンの存在が一過性のものなら私が押し黙る選択もありましたが、
残念ながら伝授されえるような状況で、未だに継続している。

日本政府も国民も腰をすえて対峙するべき時が来ているようである。
出来る事からやっていくしかない。

01/20 安倍首相の靖国参拝 ネット世論の8割が支持
                          2013年12月28日
政権発足1年に合わせた安倍晋三首相の靖国神社参拝について、
Yahoo意識調査で8割近くが「妥当」と回答。
産経1紙が「国民との約束果たした。平和の維持に必要」と主張、
他は批判一色というマスメディアとは正反対の反応になっている。

江戸時代の騒動に、
謀反を起こしたかどで即刻切腹を言い渡され、
見せしめの為に一年後に更に墓を暴いて、(当時は土葬である)
屍を晒して鋸刑に処せられた話があるが、
別の話ではその父母の屍まで晒し鞭打ちの刑にされたと聞いた。

何もそこまで、と思うが、責める側は止め処ない。
事が過ぎ、あるいは時が過ぎた後、やはり人は手を合わせる生き物であろう。
それが自然の姿であるから。


春秋時代に孔子様は「礼に始まり礼に終わる」を実践した。
孔子の弟子、子路はいたく感激して絶賛した。

いつもだらだらと始まり、だらだらと終わっていた会議が、
礼に始まり礼に終わる」セレモニーによって一新され、
きゅっと身が引き締まり実のある集まりになった。

ちなみに孔子の弟子、子路、と書くと何か可愛らしい感じがするが、
実際は髭もじゃの豪傑である。

総理は「不戦の誓い」をして気持ちを新たにしたのだろう。
自然の姿である。                              草々

 その 866 NHK行 2014年1月25日
前略 2013/12/09 私の「スペリオパイプ 」という曲は、太陽は罪な奴(1996年)
私の「対夏 」という曲は、01MESSENGER 〜電子狂の詩(1997年)
私の「夏に逢えば 」という曲は、BLUE HEAVEN(1997年)
私の「打明話 」という曲は、LOVE AFFAIR 秘密のデート(1998年)
私の「林檎の実が落ちる時 」という曲は、PARADISE(1998年)

みなさんも確認できますが、キリバン曲の「ビバデ」はKANの愛は勝つ、です。
そう言われて聴き比べると雰囲気があるでしょう。

何故かと言うと、
小枠でひっくり返していますが、歌詞の最後尾からではなく、ほぼ最初からで、
さらに原曲自体が音符の長短が少ない所為か、はたまた、平坦化しづらいからか、
スキャットあたりの部分は前奏に利用しているようである。

こう書いてみて、いかに平坦化や小枠の最後尾からのひっくり返しが、
悪あがきなのかが分かろうと言うものです。

さて、次回はいよいよTSUNAMI(2000年)です。
ネットでのサンプル楽譜の数もいとしのエリーを抜いてダントツの30という太鼓判。

ふむふむ、出だしは原曲の前奏を利用しているようだ。 おっ楽しみにぃぃぃ。

2013/12/16 私の「夜のポケット」という曲は、イエローマン星の王子様(1999年)
私の「女の子」という曲は、TSUNAMI(2000年)
私の「天の川の流れの中で」という曲は、HOTEL PACIFIC(2000年)
私の「空の上に畳を敷いて」という曲は、この青い空、みどり BLUE IN GREEN(2000年)
私の「季節の中を」という曲は、涙の海で抱かれたい SEA OF LOVE?(2003年)

さて、TSUNAMI(2000年)ですが、出だしのAメロは原曲の伴奏を利用していて、
Bメロの歌詞3行に原曲のAメロ出だしを持ってきて、
Cメロに原曲のAメロ出だしの続きをそれぞれ末尾からの小枠ひっくり返しで纏めている。
サザンのひっくり返しの特徴は歌詞の最後尾からの小枠がおもである。

女の子」というこの曲は、都倉俊一がクリッパーの BOY(1978年)という曲で、
言わずとしれた泣く子も笑うソニーレコードからほぼ原曲の原型で発表している。
原曲のBメロとCメロ(サビ)を置き換えてひっくり返しの戻しであろう。

その後に瞳はダイアモンド 松任谷由実(1983年)と、サザンのTSUNAMI(2000年)と、
需要が多いが、先見の明があるのではなく単なる処女に群がるハイエナの類である。

まさかとは思いつつ、前倒しで今年発表の「ピースとハイライト」を調べたら、
案の定である。
白雪姫のお話(1973年)」という曲。

これはもうほとんど病気である、治りようがない業界の病巣である。

2013/12/23 私の「横目チラチラ(Cメロ)」という曲は、Aja(2004年)
私の「星の面影」という曲は、君こそスターだ/夢に消えたジュリア(2004年)
私の「メリーゴーランド」という曲は、愛と欲望の日々(2004年)
私の「残り火」という曲は、BOHBO No.5/神の島遥か国(2005年)
私の「微塵返し」という曲は、DIRTY OLD MAN さらば夏よ(2006年)

またバッキャモンの悪戯に見舞われた。 腹痛。
一日経っても術後のように体力奪われてふらふら状態。            草々

 その 867 NHK行 2014年2月1日
前略 2013/12/31 ダブルシングルの片方。
私の「ブルームーン」という曲は、ごめんねチャーリー(1980年)
私の「スーパーマンのように」という曲は、夢に消えたジュリア(2004年)
私の「眠り姫」という曲は、神の島遥か国(2005年)
私の「すれ違ったまま」という曲は、I AM YOUR SINGER(2008年)
私の「白雪姫のお話」という曲は、ピースとハイライト(2013年)

 シングルカット曲を総て調べ終わりました。
何せ私の曲がかぶっているので、私が調べないと永久に分からず仕舞いになってしまい、
そう思うと原曲も残しておかないと私の身もヤバイという信じられない現実に目覚め、
デジカメの音ですが、一通り伴奏なしの曲を録音してDVDに焼き終えた。

アルバムも15枚程出しているが、こちらは調べようがなく、保留。
全体的に外国曲に手を出さず、国内で済ましているのが、東芝と違うところである。
ただ、私の楽曲の取り合いとして見た場合、かなりの強引さがみられる。

ここまで暴露して分かるとおり、桑田氏は作曲者ではないという事、松任谷由実と同じく、
唱と広報とドサ回り担当シンガーでしょう。

前に少し歌詞を分析した事があるが、
イメージを決めたら素人数人で連想して言葉を出し合い埋めていく作業のようで、
であるから仕舞いに分裂症患者の作詞、と評した事がある。

歌詞全体の纏まりがなく、ようするに文字同士の粘っこさがないのだ、
昔の駅の掲示板のように目的や主張は分かるが別件事項のような。

ビクター関連の社員が多く犠牲になっているが、関連があるのだろうか?

私の後ろでごちゃごちゃやっている分にはまだいいが、
私の前でやりだすのは御法度である、私を巻き込むな、という事である。 以上サザン終了



01/07 ジャニス・ジョプリンの「サマータイム」という曲は、ある雨の日の情景 吉田拓郎(1971年)
民謡の「竹田の子守唄」という曲は、旅の宿 吉田拓郎(1972年)
ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」という曲は、春だったね 吉田拓郎(1972年)
私の「落下水」という曲は、洛陽 吉田拓郎(1973年)
私の「惜別」という曲は、冬のリヴィエラ 大瀧詠一(1982年)

 スロースタートでいきたかったが、そうはさせてくれない音楽業界といったところ。
しっかり調べていないが、こんな感じである。

西の松任谷由実、東の吉田拓郎というほどの大暴れ時の一例。
私の「落下水」という曲などはソニー経由であるが、ひっくり返して戻した原曲の発表である。
新人の曲だろうが、同和の曲だろうが、海外の曲だろうがお構いなし。

>不思議なところでは吉田拓郎氏は80年頃にはピタッとひっくり返し曲は止まっている、
>まぁ名前を伏せて作っているような事象があるが、ここでは割愛する。

冬のリヴィエラという曲は大瀧詠一氏になっているが、私は吉田拓郎氏の仕事と思っている。  草々

 その 868 NHK行 2014年2月8日
前略 01/14 イタリア民謡の「サンタルチア」という曲は、結婚しようよ(1972年)
ザ・スパイダースの「 夕陽が泣いている」という曲は、君去りし後(1973年)
唱歌の「旅愁」という曲は、制服(1973年)
私の「星の面影」という曲は、ペニーレインでバーボン(1974年)
私の「蜘蛛」という曲は、襟裳岬(1974年)

テンポの速い曲や引き語りなどは吉田氏の持ち味であるが、
原曲の一音に3個も4個の連符にするものだから驚きである。
原曲の4文字が、ひっくり返しの1行である。

旅愁の「() () () () 秋の夜 旅の空の
     わびしき思いに 一人悩む」

制服の「(ラッシュ・アワーが) (疲れを) (吐き出して) ()
    人の多さまでがものめずらしげに見えて
    東京駅地下道の人ごみの中
    ひと群れの制服の娘たちがいる」

という具合である。

エンディングのハーモニカ奏が「旅愁」ではなく「故郷の廃家」なのは、
吉田氏の皮肉であろうか。

ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?

01/20 童謡の「虫の声」という曲は、こっちを向いてくれ(1972年)
吉田拓郎の「」という曲は、ルームライト(1973年)
ジミ・ヘンドリックスの「紫のけむり」という曲は、からっ風のブルース(1973年)
私の「心の友達」という曲は、我が良き友よ(1975年)
私の「春は風に乗って」という曲は、歌ってよ夕陽の歌を(1975年)

」という自分で手がけたのをひっくり返しているが、後半アレンジ利用がみられる。
からっ風のブルースは今回のが正解、やはりアレンジ利用がみられる。


ひっくり返し曲が常態化していた音楽業界、というのが分かってきたと思いますが、
ここに層化、在日などが、食いついてきたものと思われます。

いわゆる「おおやけにしないから層化枠、在日枠をよこせ」である。
火に油が注がれた分けで、どこまでたがが外れたのかは計り知れず、
組織内組織が作られ、今やマスコミなども目も当てられない状態である。

耳に心地よいはずの音楽が、実は日本を蝕む原動力になっていた、という事です。
もちろん音楽に何の作為などなく、扱う人間の問題です。

後発レコード会社のソニーもこういう類と何ら変わりない最低最悪の人種です。

40年も私を弄んだ迷惑料だけでも大変な額になる。
こちらではなくそちらの儲けに比例する迷惑料になるはずだ。
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?                 草々

 その 869 NHK行 2014年2月15日
前略 01/27 私の「あめんぼ」という曲は、となりの町のお嬢さん(1975年)
私の「スーパーマンのように/あいつ」という曲は、風になりたい(1976年)
郷ひろみの「男の子女の子」という曲は、メランコリー(1976年)
私の「涼しさ」という曲は、やさしい悪魔(1977年)
私の「僕の音楽の部屋」という曲は、アン・ドゥ・トロワ(1977年)

スーパーマンのように」という曲はAから始まりコードが一つずつ上がっていく作りで、
あいつ」は、その「風になりたい」のサビに使っているようだ。
やさしい悪魔」は「涼しさ」という曲の歌詞の合間に入るギター音まで取り入れて、出来上がっているようだ。

私の曲に関しては、あてがわれたものをこなしている、という印象である。

からっ風のブルース(1973年)」と同じ頃に井上陽水氏は、「夕立(1974年)」を発表しているが、
これがよく似ていて、原曲からの派生というよりも、マニュアライズされたものをそれぞれという印象である。

ちなみに、私の「逃げなくちゃ」という曲は、夢の中へ(1973年)である。

探しものは何ですか?
見つけにくいものですか?
カバンの中も つくえの中も
探したけれど見つからないのに

探しものは何ですか? の「何ですか?」の部分、
見つけにくいものですか? の「ものですか?」の部分に、
原曲中間のフレーズ、「逃げなくちゃ」「逃げなくちゃ」を持ってきている。

ようするに「何ですか?」の部分と「カバンの中も」を、
ものですか?」の部分と「つくえの中も」のメロディを差し替えている、珍しい弄くりのひっくり返し曲である。
昨日私が作ったのを明日には音源化しているという程の素晴らしい音楽業界である。

さて、次回は吉田氏の初期の頃の楽曲にふみ込み、いわゆる「拓郎節」を分析である。
ふむふむ・・・・・ ぷっ。(笑)  こりゃサザン以上だわ、おっ楽しみにぃーーーぃ。

軌道修正の道も開けていたはずなのに、それさえも省みなかった、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?

02/03 ドイツ民謡の「かえるのうた」という曲は、青春の詩(1970年)
加山雄三の「走れよドンキー」という曲は、とっぽい男のバラード(1970年)
童謡の「むすんて_ひらいて」という曲は、男の子・女の娘(1970年)
ジミ・ヘンドリックスの「紫のけむり」という曲は、雪(1970年)
童謡の「七つの子」という曲は、こうき心(1970年)
プロコル・ハルムの「青い影」という曲は、今日までそして明日から(1970年)
ザ・ブロードサイド・フォーの「若者たち」という曲は、イメージの詩(1970年)
映画・禁じられた遊びの「愛のロマンス」という曲は、マークU(1971年)
連続テレビ映画の「少年ケニア」という曲は、夏休み(1971年)
アダモの「ブルージーンと皮ジャンパー」という曲は、ともだち(1971年)

まさか「かえるのうた」「むすんて_ひらいて」「七つの子」「少年ケニア
が出てくるとは思いませんでしたが、若きたくろう少年がウクレレ抱えて、
いかに銭を捻り出す術を生み出せるか、孤軍奮闘した曲が、これらです。

紫のけむり」は2度目ですが、歌唱の方に重点を置いているようである。

こうき心」は何度聴いても分からず、仕舞いに布団を被って反復していたら、
区の広報スピーカーから5時を知らせるメロディが流れてきた。

不思議な事に反復している音にすんなり入り込んでくるではないか。
まさかぁと苦笑いしたが、不思議な事もあるもので、妙な感動を覚えた。
かぁらぁすぅーの「七つの子」である。
悪い事はできないものなのでしょうか、時の氏神様は私の味方のようである。

いつまでとぼけているのか、おしめの取れない子供じゃあるまいし、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?                 草々

 その 870 NHK行 2014年2月22日
前略 02/10 サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」という曲は、人間なんて(1971年)
盆踊りの「炭坑節」という曲は、花嫁になる君に(1971年)
マヒナ・スターズの「涙くんさようなら」という曲は、どうしてこんなに悲しいんだろう(1971年)
ボブディランの「ホームシック・ブルース」という曲は、高円寺(1972年)
ベートーヴェンの「運命」という曲は、リンゴ(1972年)
アダモの「夜のメロディ」という曲は、せんこう花火(1972年)
加山雄三の「蒼い星くず」という曲は、祭りのあと(1972年)
ビートルズの「ブラックバード」という曲は、ガラスの言葉(1972年)
テレビドラマの「泣いてたまるか」という曲は、おやじの唄(1972年)
新谷のり子の「フランシーヌの場合」という曲は、地下鉄にのって(1972年)

20歳の松山に居た頃、近くの軽食喫茶に立ち寄っていたが、
そこにジュークボックスが置いてあって、「おやじの唄」をよく聴いていた。
何せ夏は暑いし、蚊に刺されてアレルギー起こすし、モミジのような蜘蛛は出るし、
環境の変化に体がついていけず、四苦八苦していた頃が懐かしい。

誰でも思いつく単純な盗作に、フレーズ毎の両端を利用するというのがあるが、
業界ではどのようなスラングを用いているのだろうか。
以外な曲がそうだったりして、原曲にピタリとはまるのがある。

ともだち(1971年)などはひっくり返して、まさにそれである。
その逆にフレーズの中を利用するというのもあるが、こちらも多い。

さて、この頃に発表されて吉田氏も選曲している「雨が空から降れば」という曲がある。

これをひっくり返してみると「上を向いて歩こう(1961年)」になる。
更に「上を向いて歩こう」をひっくり返してみると「ラジオ体操第一」になる。

つまり「ラジオ体操第一」を小枠でひっくり返して戻したのが、「雨が空から降れば」という事になる。
両方をよく聴き比べてみてください、変化を差し引くとよく似ている。

試しに、「かえるのうた」のフレーズの頭を少し伸ばして唄ってみて下さい。
かーえるの うーたが きーこえて くーるよ
次に歌詞の差し替え。
くーるよ きーこえて かーえるの うーたが
次に歌詞を変えて。
あーおぞら ひーろいな とーおくで かーらす
少し手を加えるだけで、がらりと曲調が変わってくるのが分かると思います。

みんなやってるし、層化が助けてくれるし、バッキャモンが何とかしてくれるし、ってか、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?                    草々

 その 871 NHK行 2014年3月1日
前略 02/17 江利チエミの「テネシーワルツ」という曲は、おきざりにした悲しみは(1972年)
ビートルズの「サージェント・ペパーズ〜バンド」という曲は、なんとかならないか女の娘(1972年)
ベートーベンの「エリーゼの為に」という曲は、僕一人(1972年)
黛ジュンの「恋のハレルヤ」という曲は、恋の歌(1972年)
私の「幼なじみ」という曲は、伽草子(1973年)

さて、単純な盗作法にフレーズの中を利用というのがありますが、列挙。

昭和を代表する作曲家、遠藤実氏。

藤山一郎の「丘を越えて」という曲は、高校三年生(1963年)
ロシア民謡の「トロイカ」という曲は、星影のワルツ(1966年)
連続テレビ映画「少年ケニア」という曲は、こまっちゃうナ(1966年)
童謡の「嬉しい雛祭り 」という曲は、せんせい(1972年)
私の「横目チラチラ」という曲は、北国の春(1977年)

原曲出だしの音をはずしてフレーズ毎に上手に利用しているのが分かりますが、
ひっくり返していないので、誰でも確認する事ができます。

嬉しい雛祭り」などは元々音符が少ないところへ中抜きするものだから、
せんせい」と両方、聴き比べてみてください、バレバレなのが分かります。

著名な方ともなれば、それでもまだ、「似てしまった」とか「ついうっかり」で、
逃げられそうですが、致命的なのは、私の未発表の曲に手を出している事。

ほとんど出だしの一音をはずして始まっていますが、「横目チラチラ」は、
メロディが豊富な所為か、Cメロの出だしを利用しています。

これで作曲、これで作曲家、これで5000曲の演歌の大御所。
私に言わせれば精々「オチャラカ奏法」の常習者と言ったところ。

誰が後押ししているのか、国民栄誉賞保持者であるが、
こんな不正を国民の誰も頼んではいないし、浮かれている国民の所為にされてはたまらない。
市場のパイは決まっているのであり、不正をしないのが、最低限のマナーである。

さらに代表格が続きます。

大衆歌謡の最大の作曲家、古賀政男氏。

ベートーベンの「エリーゼの為に 」という曲は、丘を越えて(1931年)
ペツォールトの「バッハ・メヌエット-ト長調(ラヴァーズ・コンチェルト)」という曲は、
          酒は涙か溜息か
(1931年)
バッハの「G線上のアリア 」という曲は、影を慕いて(1932年)
シューベルトの「アベマリア 」という曲は、柔(1964年)
ロシア民謡の「ともしび 」という曲は、悲しい酒(1966年)

その他、吉田正氏の「いつでも夢を」は、ビバルディの「春」
服部正氏の「ラジオ体操第一」は、ベートーベンの「運命」のようである。

業界総白痴化の、ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?   草々

 その 872 NHK行 2014年3月8日
前略 私の「悲しさ」という曲は、蒼い夏(1973年)
東海林太郎・松島詩子の「金色夜叉」という曲は、風邪(1973年)
私の「白雪姫のお話」という曲は、野の仏(1973年)
私の「沖へボートはゆく」という曲は、ひらひら(1973年)
私の「十字路のアイソタイプ」という曲は、悲しいのは(1976年)
私の「スイスイスイスイ」という曲は、アジアの片隅で(1980年)

吉田氏のひっくり返しの特徴は松任谷陣営と同じ、出だしからの小枠であるが、
平坦化よりも、むしろ選曲に特徴があるだろうか。

後期の曲をちらっと聴いての訂正だが、曲利用は続いているようである。
ただ、ヤバイのには手を出さず無難な曲に終始しているようだ。
錯覚しがちだが、ひっくり返しをやってる人は作曲センスはゼロと思った方がいい。

86年に「レノン症候群」という曲があり、安井かずみ氏の作詞のようであるが、
無邪気な 自分はもういない」という心境なのだろう。
以上、吉田氏終了。

さらにフレーズ中抜き作曲者代表格の続きです。
市川昭介氏。
橋幸夫の「潮来笠」という曲は、アンコ椿は恋の花」(1964年)
美空ひばりの「りんご追分」という曲は、馬鹿っちょ出船(1965年)
ジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」という曲は、涙の連絡船」(1965年)
西郷輝彦の「星娘」という曲は、アラ見てたのね(1966年)
西郷輝彦の「君だけを」という曲は、好きになった人(1966年)

小林亜星氏の「ワンサカ娘(1964年)」は、「アイドルを探せ」、
61年発表になっているが、たぶん嘘である。
北の宿から(1975年)」は、私の「いやな日」という曲である。

さて、次回は井上陽水氏であるが、ふむふむ・・・えっ・・・?
こっこっこれって? これゃ吉田氏以上だわ、おっ楽しみにぃぃ。

擬音狂者の銭の音 素行不良の響きあり 
ひっくり返し曲者にあらずんば作曲者にあらず、
の、ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?    草々

 その 873 NHK行 2014年3月15日
前略 童謡の「コガネムシ」という曲は、断絶(1972年)
ビートルズの「グッドナイト」という曲は、感謝知らずの女(1972年)
童謡の「かあさんの歌」という曲は、人生が二度あれば(1972年)
映画の「ゴジラのテーマ」という曲は、愛は君(1972年)
テンプターズの「神様お願い」という曲は、白い船(1972年)
ミュージカルの「ドレミの歌」という曲は、限りない欲望(1972年)
アダモの「ブルージーンと皮ジャンパー」という曲は、傘がない(1972年)
童謡の「小さい秋見つけた」という曲は、つめたい部屋の世界地図(1972年)
レーモン・ルフェーブルの「シバの女王」という曲は、あどけない君のしぐさ(1972年)
映画の「男と女」という曲は、東へ西へ(1972年)
ペツォールトの「バッハ・メヌエット-ト長調・ト短調」という曲は、かんかん照り(1972年)
ビートルズの「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」という曲は、白いカーネーション(1972年)
バッハの「アリオーソ」という曲は、夜のバス(1972年)
レッドツェッペリンの「ロックンロール」という曲は、神無月にかこまれて(1972年)
私の「暗い世界」という曲は、夏まつり(1972年)

井上陣営も吉田氏と同じ出だしからの小枠のひっくり返しであるが、
吉田氏は初期からの算段があるようなのに対して井上陣営は手馴れている感じである。

えっ・・・? こっこっこれって?というのは私の「暗い世界」という曲であるが、
初期も初期の一番最初に作った曲ではないか。

コーアノートは毎年色違いのリング綴じノートを出していて、73年は黄色
74年は黒、75年は鶯色・・・毎年気持ちを新たにして買っていたのだが、
それ以前の使いかけのノートに収まっている作品である。

発表などには覚束ない試しに作ってみた曲で、ちなみに歌詞は、こんな感じ。

いくら空が 晴れたって
僕の心は いつも暗い

暗い世界 暗い心
あーやんなっちゃったー
あー あー あー あー 

しかし心情を吐露するというのは良い面があるようで、
自分の焦点をこうして調整していき、纏まりのあるものにピントが合っていくのだろう、
それにしてもピントの早さには脱帽であろうか。

さらにフレーズ中抜き作曲者代表格の続きです。
いずみたく氏。
ショパンの「別れの曲」という曲は、夜明けのうた(1964年)
チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」という曲は、世界は二人のために(1967年)
シューベルトの「アベマリア」という曲は、いいじゃないの幸せならば(1969年)
シューベルトの「アベマリア」という曲は、夜明けのスキャット(1969年)
私の「スイスイスイスイ」という曲は、われら青春!「帰らざる日のために」(1974年)
私の「スイスイスイスイ」という曲は、ふれあい(1974年)

妙なところでは敏速であるのに、大事なところでは鈍足な、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?           草々

 その 874 NHK行 2014年3月22日
前略 03/10 CCRの「雨を見たかい」という曲は、紙飛行機(1972年)
ワイルドワンズの「青空のある限り」という曲は、能古島の片想い(1972年)
Kとブルンネンの「何故に二人はここに」という曲は、いつのまにか少女は(1973年)
私の「逃げなくちゃ」という曲は、夢の中へ(1973年)
ビートルズの「イエスタディ」という曲は、帰れない二人(1973年)
矢吹健の「あなたのブルース」という曲は、氷の世界(1973年)
私の「幼なじみ」という曲は、白い一日(1973年)
私の「十五夜のお祭り」という曲は、心もよう(1973年)
私の「落下水」という曲は、桜三月散歩道(1973年)
フランク永井の「君恋し」という曲は、小春おばさん(1973年)
映画の「男と女」」という曲は、おやすみ(1973年)
ジミヘンの「紫の煙」という曲は、夕立(1973年)
アニメの「ゲゲゲの鬼太郎」という曲は、ゼンマイじかけのカブト虫(1973年)
私の「三日月夜」という曲は、御免(1973年)
私の「スーパーマンのように」という曲は、二色の独楽(1973年)

ご利用が多岐にわたっていて、あえて井上陣営と付け足していますが、
説明がいるようだ。

当時、70年初頭はフォークブームが真っ盛りで、コンサート中心のスケジュールであり、
井上氏もそういう毎日だったと思う。
つまり私の「逃げなくちゃ」をひっくり返しての当時の時間軸からいって、
井上陣営では可能であっても井上氏にはちょっと無理であろうという事である。
ようするに「誰が作っているのか分かりゃしないよ」という事である。

帰れない二人」「心もよう」「桜三月散歩道」「おやすみ」など興味深い。
心もよう」は例の3オクターブの「十五夜のお祭り」であるが、
ラストは裏声を使ってかなり上がっている。

さらにフレーズ中抜き作曲者代表格の続きです。
中村八大氏。
サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」という曲は、黒い花びら(1959年)
ビバルディーの「」という曲は、じんじろげ(1961年)
パッフェルベルの「カノン」という曲は、夢であいましょう(1961年)
服部正の「ラジオ体操第一」という曲は、上を向いて歩こう(1961年)
ラヴェルの「ボレロ」という曲は、遠くへ行きたい(1962年)
ベートーベンの「悲愴」という曲は、こんにちは赤ちゃん(1963年)
ベートーベンの「エリーゼの為に」という曲は、帰ろかな(1965年)
パッフェルベルの「カノン」という曲は、涙をこえて(1969年)

上を向いて歩こう」を中抜きしても「ラジオ体操第一」に近づいたので、
ひっくり返しではなく中抜きに訂正。

次回はいよいよというか、フレーズ外枠作曲者代表格ですが、けっこうシンドイ。

自転車置き場の雪だるまの場所に誰かソニーのデッキを置いているが、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?        草々

 その 875 NHK行 2014年3月29日
前略 02/10 「共犯者」ゴーストライター新垣氏 謝罪
                  日刊スポーツ 2月6日(木)
桐朋学園大の新垣(にいがき)隆講師(43)が、6日、都内で会見を行い、
「現代のベートーベン」と称される全聾(ろう)の人気作曲家・佐村河内 (さむらごうち)守さん(50)
のゴーストライターをしていたことを告白、謝罪した。

また、佐村河内氏と通常の人々と同じように会話していたことを明かした。

新垣氏は「私は、佐村河内さんから出会った日から18年にわたり、彼の代わりに曲を書き続けてきました。
彼が世間を欺いて曲を発表していることを知りながら、曲を書き続けた私は、 佐村河内さんの共犯者です。
障害をお持ちの方、彼のこと信じて曲を聞いてくださった方、
演奏家のみなさま、
本当に申し訳ありませんでした」と謝罪した。


その上で、「私の認識では、初めて彼と会った時から、今まで特に、
耳が聞こえないということを感じたことは1度もありません」と暴露。
「私が録音したものを、彼がきき、彼がそれに対してコメントをするということは何度もありました」と続けた。

さらに報道陣から「それでは、佐村河内氏が耳が聞こえないことをよそおっていたのか」と問われると、
「はい」と言い切った。

また、自身がゴーストライトした曲をソチ冬季五輪で曲を使用する高橋大輔選手について
「事実を知った上で堂々と戦ってほしい」と話した。

佐村河内氏との金銭面のやりとりについても言及。
「印税については私は関係ありません。佐村河内氏から1曲ごとに報酬を得ていました。
正確ではありませんが、18年間で20曲以上作り、およそ700万円を得ました」と話した。

ひっくり返し曲が常態化している慢性的な中で、今回のような関係はいっぱいあるし、
これからも出てくるであろう。
曲を手放すなどという事は、そういう環境からでしか出てこない。

前にも比喩したが、
自分の生い立ちを綴ったフォトアルバムを捨てるような馬鹿はいないし、
自分の顔写真を人のだといって渡す馬鹿もいない。

日本コロンビアといったら老舗中の老舗であろう。
私の子供の頃も御三家などを輩出してその一人を育てているようだ。
と同じように大御所といわれる作曲者も王道を歩いて歌謡界を盛り立てていた。

私は被害者なのでそういう分けにはいきませんが、みなさんは腹を抱えて笑う事になる。
まったくこまっちゃうナ、であるが、次回、ここ変をお楽しみに。(抗議文 その 871)

 その 876 NHK行 2014年4月5日
前略 03/12 日本コロムビア 佐村河内作品に「法的な責任はない」と主張
 レコード会社の日本コロムビアは6日、公式サイトを更新。
「両耳の聞こえない作曲家」として活動しながら、
ゴーストライター騒動を巻き起こした
佐村河内守(さむらごうち・まもる)氏(50)について見解を発表した。


)「交響曲第1番"HIROSHIMA"」CD発売までの経緯について 
)ゴーストライターの存在について

)佐村河内守氏の聴力および経歴について  
)弊社と佐村河内守氏との関係について、社内調査


 などの結果を踏まえ、事実関係を報告した。
(1)同社がCD化を検討する以前から当該楽曲の演奏は既に行われ、
また著作権管理団体において当該楽曲が
「佐村河内守氏作曲」として登録されている事実を確認したことから、

佐村河内守氏が当該楽曲を作曲したことに疑念を抱く余地はなかった。

(2)同社担当者が"うわさ"を耳にしたことはあったが、
具体的な根拠を示すような情報でなかったことから、

その時点においては佐村河内守氏に対する誹謗中傷であり、
根も葉もないうわさに過ぎないと認識した。


(3)同社担当者との会話は、すべて手話通訳を介して行われた。
また同社担当者が障害者手帳の確認も行っていたため、
佐村河内守氏が全聾であるという点について疑念を抱いたことはなく、
それ以上の確認などを行ったことはなかった。


(4)同社と佐村河内守氏との間で専属契約、マネジメント契約などの契約関係は一切ない。
佐村河内守氏作曲とされる楽曲については、
同社は著作権管理団体に対して楽曲の使用料を支払っている。


 以上のことから、同社が発売した佐村河内守氏関連商品は、
その時点においては正しいと信じるに足る情報を記載。

「弊社に法的な責任はないものと考えております」と主張した。

 一方「結果として誤った内容が多く含まれていたことは事実であり、
その情報を信じて弊社商品を購入されたお客さまに対しては、
商品の発売元として道義的な責任を痛感しております」としている。


どったらこったら、もうバレてるのに。

いわゆる上っ面だけの言い分、言い訳に終始しているが、
業界には業界でしか通用しない言い分、言い訳があり、
これが悪循環を成して悪い意味で護送船団を形成し今に至っている。

旗艦はもちろん層化の三色旗であろう。

ちょっと「交響曲第1番"HIROSHIMA"」を聴いてみたが、
ゴジラ映画あたりから吸い出してるんじゃないのかと思った。
誰かビデオ持ってる人調べてみたら。                                          草々

 その 877 NHK行 2014年4月12日
前略 03/18 由紀さおりの「夜明けのスキャット」という曲は、ロンドン急行(1974年)
私の「サリーの君はU」という曲は、旅から旅(1974年)
私の「柿食わば」という曲は、海へ来なさい(1979年)
TVアニメの「忍風カムイ外伝」という曲は、リバーサイドホテル(1982年)
私の「脈打つ心は突っ走れX」という曲は、ワインレッドの心(1983年)
リトル・エヴァの「ロコモーション」という曲は、飾りじゃないのよ涙は(1984年)
私の「買い物」という曲は、少年時代(1990年)
ジョンレノンの「イマジン」という曲は、決められたリズム(2002年)

荒井氏、桑田氏、吉田氏、井上氏と在日のようであるが、偶然ではないだろう。
ソニーはそのものが御多分に洩れず、であろう。

井上氏は80年代頃に突如テレビのクイズ番組に出ていて、
大東亜戦争は勉強していて詳しい」とコメントで豪語していたが、
問題が出て、コロッと外して、その後立ち直れず赤っ恥をかいていた。
フォローも何もなかったので身につまされる思いであったろう、
まぁ、自身の表現としては起承転結が効いていて、最高のひねりであった。
笑かしてはもらった。 以上、井上氏終了。

昨年、ちらっと観たテレビでさだまさし氏が、「忘れてた」とか聴こえてきていたが、
リクエストにお答えして次回はさだ氏である。

フレーズ外枠」は分からないのが出てきたのでもう少し時間をください。

バッキャモンの呟きでは「甘くみた」のだそうだ。
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?

03/23 奥村チヨの「恋の奴隷」という曲は、精霊流し(1974年)
奥村チヨの「終着駅」という曲は、追伸(1974年)
私の「蜘蛛」という曲は、僕にまかせてください(1975年)
私の「白雪姫のお話」という曲は、ほおずき(1975年)
私の「買い物」という曲は、朝刊(1975年)
私の「残り火」という曲は、無縁坂(1975年)
私の「林檎の実が落ちる時 」という曲は、線香花火(1976年)
私の「氷水」という曲は、雨やどり(1977年)
私の「僕の音楽の部屋」という曲は、吸殻の風景(1977年)
私の「冬みかん」という曲は、案山子(1977年)

さだまさし氏であるが、こちらもさだ陣営であろうか。
全国ツアーをよくこなしている人は概ねそういう体制のようである。
思っていたよりも本格的に私の曲に手を出していて驚きである。

ちょうどよい素材なので、ひっくり返し曲の過程を分析である。

こうして作業をしていて、ただひっくり返しても分かりづらい。
音の長短の省略もさることながらフレーズ間の音符の移動も甚だしいので、
それも考慮にいれないといけない。
では何故そうなるのかを「関白宣言」が分かりやすいので噛み砕いてみよう。

ひっくり返し曲者は、まず好みに合わせて一通りひっくり返しをしたら、それを一つの繋がりとみて、
音符の高低の波を適当な高いところ、低いところで区切っているようで、ここで音符の移動がみられる。
さだ氏のメロディに非常に多いのが高低差が余りないメロデイの繋がりである。

お前を嫁()()らう前() ()っておきた()()がある
かなりきびし()()もする() ()の本音()()いておけ

という具合である。
であるからひっくり返しと言っても素直にひっくり返っている分けではなく、
歌詞と歌詞の段落にまたがっている音符もあるのでややこしい。

メディアは「良心に任せる」で区切っているが、良心を任されている、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?          草々

 その 878 NHK行 2014年4月19日
前略 03/30 私の「柿食わば」という曲は、セロ弾きのゴーシュ(1977年)
私の「私にも分かるように」という曲は、秋桜(1977年)
私の「と、ブルースを」という曲は、桃花源(1978年)
私の「残り火」という曲は、檸檬(1978年)
私の「星の面影」という曲は、天までとどけ(1978年)
私の「空の上に畳を敷いて」という曲は、関白宣言(1979年)
私の「満月」という曲は、親父の一番長い日(1979年)
私の「天の川の流れの中で」という曲は、道化師のソネット(1980年)
私の「十五夜のお祭り」という曲は、防人の詩(1980年)
吉田拓郎の「たどりついたらいつも雨降り」という曲は、恋愛症候群(1985年)
私の「微熱 Bメロ」という曲は、北の国から(1998年)

「道化師のソネット」は最終的に「天の川の流れの中で」に落ち着きました。
あれだろう、これだろうと指摘していましたが、今回が最終訂正です。
何故そんな事にと思われますが、ようするにやっとエンジンがかかった、
という事です。

この頃は作業が慣れてきて各当曲のデジカメの録音も区切りに空録を入れたりして、
一回でひっくり返し曲の戻しをやっていてパソコンに取り込んでいます。

出だしの「恋の奴隷」「終着駅」と東芝の曲を使っていて、
その後、私の曲に終始していますが、80年以降から85年はやはり不気味である。

原曲の「空の上に畳を敷いて」はギターコードで作られているので、
コード音に合わせて高低差があり伸びのある仕上がりである。

ベートーベンの「悲愴 第2楽章」に「桃花源」が重なっていてそっくりで、
吃驚ものであるが、光栄ではある、と考えるのはやっぱり筋違いで、
もちろん原曲の「と、ブルースを」は全然違います。
ひっくり返しなどと馬鹿な事をやり出すとこういうありえない事が起こる。

以上さだ氏終了。



80年以前、ソニーが大人しい訳がない、という事で調べたら宇崎竜童氏が浮上。
ももちゃんの曲を列挙。

私の「サリーの君は V」という曲は、弟よ(1975年)川口真 コロムビア
私の「きの子」という曲は、愚図(1975年)キャニオン
私の「春は風に乗って」という曲は、想い出ぼろぼろ(1976年)コロムビア
私の「脈打つ心はつっ走れ U」という曲は、横須賀ストーリー(1976年)
私の「沖へボートはゆく」という曲は、硝子坂(1977年)テイチク
私の「微塵返し」という曲は、夢先案内人(1977年)
私の「脈打つ心はつっ走れ VWX」という曲は、イミテイション・ゴールド(1977年)
私の「腕を引けば」という曲は、乙女座 宮(1978年)
私の「トマト食えば」という曲は、プレイバックPart2(1978年)
私の「三日月夜」という曲は、絶体絶命(1978年)
私の「夏に逢えば (ギターアレンジの方)」という曲は、いい日旅立ち 谷村新司(1978年)
私の「悲しさ」という曲は、美・サイレント(1979年)
私の「対 影」という曲は、しなやかに歌って(1979年)
私の「鈴蘭燈」という曲は、ロックンロール・ウィドウ(1980年)
私の「御月草紙」という曲は、さよならの向う側(1980年)

弟よ(1975年)」をひっくり返している松任谷由実の 「青い船で(1983年)」が、
私の「サリーの君は V」によく似ているので、その「弟よ」を調べたら案の定である。
ようするに一巡して原曲に重なっている訳である。

次回は宇崎氏の初期の頃であるが、またまた、こっこっこれって?である。
みなさん「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」何だと思います? ぷっ。
おっ楽しみにぃぃ。

出てくる出てくる、ここ掘れワンワン、ポチもびっくりの、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?                  草々

 その 879 NHK行 2014年4月26日
前略 4/05 私の「心の中は」という曲は、知らず知らずのうちに(1973年)東芝
私の「レインコート」という曲は、スモーキン'ブギ(1974年)
私の「脈打つ心はつっ走れT」という曲は、港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ(1975年)
私の「」という曲は、カッコマン・ブギ(1975年)
私の「十字路のアイソタイプ」という曲は、涙のシークレット・ラヴ(1976年)
私の「祭雨」という曲は、沖縄ベイ・ブルース(1976年)
私の「青に変わった横断歩道」という曲は、身も心も(1977年)
私の「何にも知らないあなた」という曲は、欲望の街(1979年)

私の「心の中は」という曲の詞は、恥ずかしくて載せたくないが、
君の心の中はまだわからない〜優しいのならいつまでも」という、
初期も初期の単純な中途半端な舌足らずな手探りな作品である。

勘違いをしたが、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」は、「脈打つ心はつっ走れT」に落ち着きました。

脈打つ心はつっ走れT」は初期も初期の頃に、出だしのフレーズ、
新しさがもうすぐそこに来てるというのに どうしてこんなに白けちゃってるんだろう
のみ出来上がっていて、その後に旅に出て再構築して現在の形になっています。

港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の、きわめて曲が短いのは、
多分初期も初期の頃のを確保していたからと思われる。
印象的なリフは「脈打つ心はつっ走れT」の出だしのジャッジャジャジャジャ〜ンのようである。

宇崎氏のレーベルは東芝であるのに、
ももちゃんを介してせっせと、ソニーに貢いでいるのは何故なのか、困った連中である。

宇崎氏は舟木氏のいる事務所に知り合いがいて、業界入りしたようであるが、
舟木氏といえば遠藤ミノルフォンである。

2000年頃であったか、珍しく遠藤氏はバラエティ番組に出ていて、
若手落語家に面と向かってバカと言われ、ハトが豆鉄砲食らった顔をしていたが、
番組の成り行きのちょっとしたアクシデントであったが、今でも可笑しい。

業界では承知の事で、今やっと国民にも知れ渡りつつある音楽状況といったところであろう。

さて、次回は中島みゆき嬢であるが、みゆきをすっぽんぽん、である。


ももちゃんの初期の頃。
私の「十五夜のお祭り」という曲は、青い果実(1973年)都倉俊一 ソニー
私の「落下水」という曲は、禁じられた遊び(1973年)都倉俊一
私の「脈打つ心はつっ走れ U」という曲は、冬の色(1974年)都倉俊一
私の「星の面影」という曲は、夏ひらく青春(1975年)都倉俊一


かもめはかもめ」の、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?       草々

 その 880 NHK行 2014年5月3日
前略 04/13 フジサンケイグループの配下キャニオンレコード。
私の「素直さ」という曲は、アザミ嬢のララバイ(1975年)
私の「おでこの君」という曲は、時代(1975年)
私の「横目チラチラ」という曲は、LA-LA-LA(1976年)
私の「さよなら線路」という曲は、あばよ(1976年)
私の「打明話」という曲は、わかれうた(1977年)
私の「僕からさよなら」という曲は、しあわせ芝居(1977年)
私の「微熱」という曲は、追いかけてヨコハマ(1978年)
私の「東京行ったきり」という曲は、かもめはかもめ(1978年)
私の「二十四時間のブルース」という曲は、みにくいあひるの子(1978年)
私の「レインコート」という曲は、この空を飛べたら(1978年)

私の「ひとり」という曲は、ひとり上手(1980年)
私の「三日月夜」という曲は、あした天気になれ(1981年)
私の「眠り姫」という曲は、悪女(1981年)
私の「春は風に乗って」という曲は、春なのに(1983年)
私の「影踏み」という曲は、空と君のあいだに(1994年)
私の「ロウルロウルディ」という曲は、旅人のうた(1995年)
私の「ビバデ」という曲は、地上の星(2000年)

この人もさだ氏と同じような陣営のひっくり返し曲であるが、
あまり人となりは知らないし、ラジオ番組も聴いた事がなかった。

レーベルがフジサンケイグループの配下キャニオンレコードのようであるが、
77年にラジオ番組に出た時、既に5・6曲以上のひっくり返し曲を利用している。
お世話になってます」の、一言もなかったが、もっとも、
であるからひっくり返し曲なのだろう。

前に女性には作曲は無理、というような事を書いたが、
それは男女の優劣を語っているのではなく、むしろ、
女性が子供を産む程に男は曲を作り出す」の方があっさりしているかも知れない。

そして、まさにそうであるなら、根本的な男女の頭脳の差異なのだから、
出鱈目のままではいけない、正確な方がいい。
私などはむしろ女性作曲者で押し出している陣営の無知さ異常さにあきれている。

おでこの君」「さよなら線路」「東京行ったきり」などなど、
以外と真ん中通って曲を確保していて、全体の力関係が見えてきます。
ホームページに載せる以前の「ロウルロウルディ」「ビバデ」など、
私の第二期の楽曲にも手を出しているが、節操の無さはどこも同じである。

私の資金が枯渇しているのを見越している、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?           草々

 その 881 NHK行 2014年5月10日
前略 04/19 ソニーが大人しい訳がない第二弾、ですが、筒美京平氏が浮上。
男性編、GO。
寺内タケシの「津軽じょんがら節」という曲は、男の子女の子 (1972年8月1日)
私の「別れの言葉」という曲は、小さな体験 (1972年11月1日)
私の「別れの後」という曲は、裸のビーナス (1973年6月21日
フォークルの「帰って来たヨッパライ」という曲は、花とみつばち (1974年3月21日)
私の「」という曲は、よろしく哀愁 (1974年9月21日
フィンガー5の「学園天国」という曲は、花のように鳥のように( 1975年4月)
井上陽水の「氷の世界」という曲は、誘われてフラメンコ (1975年7月21日)
私の「対夏」という曲は、あなたがいたから僕がいた (1976年8月1日

私の若い頃、郷ひろみに似ていると言われていた時期があり、それがある日、
マージャンを覚えて週末に卓を囲んでいたが、マージャン始める前は郷ひろみで、
徹マン後は頬がこけてマチャアキと言われ、友人に笑われた事がある。

夜更かしで、しかも頭を使うとなるとそうなるようで、私にとっては大人の世界は過酷であった。

私の「スイスイスイスイ」という曲は、宇宙戦艦ヤマト (1974年) 宮川泰 日本コロムビア
私の「」という曲は、木綿のハンカチーフ (1975年) 筒美京平 CBS・ソニー
私の「横目チラチラ(Aメロ)」という曲は、およげ たいやきくん (1975年) 佐瀬寿一 キャニオン・レコード
私の「花の願い2」という曲は、魅せられて (1979年) 筒美京平 CBSソニー
私の「脈打つ心はつっ走れT」という曲は、異邦人 (1979年) 久保田早紀 CBSソニー
私の「夏に逢えば」という曲は、恋におちて(1985) 小林明子 ファンハウス
私の「花の願い2」という曲は、人魚 (1994年) 筒美京平 ソニー・ミュージック

何がどうしてどうなっているのかが分かりやすい一例を掲げます。

宇宙戦艦ヤマト    200万枚
木綿のハンカチーフ 86.7万枚〜150万枚
およげ たいやきくん 500万枚以上
異邦人       144.4万枚
魅せられて     123.5万枚
恋におちて     95.3万枚

これだけでシングル売り上げが1千万枚を超えていますが、
これら総てが私の原曲のひっくり返し曲です。
75年の「およげ たいやきくん」に至っては500万枚を超えているようであり、
この75年の出来事で業界全体が完全にぶっ飛んだと思っていい。
ようするにイカレてしまったのだ。

こいつの曲は何故か美味しい」とは考えても、純粋な作曲者なのだから世に送り出そう、
とは考えられないイカレぶりである。
バッキャモンもしゃしゃり出て来て連携したような常軌を逸した揺さぶりに遭い、
ソニーなどは異常者の顔であった。

異論がある人はさっさと述べるべきであり、そろそろ警察に動いてもらう時期でしょう。

笑いが止まらない、とほざいていた、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?                  草々

 その 882 NHK行 2014年5月17日
前略 04/27 ゴダイゴのタケカワユキヒデ氏であるが、また日本コロムビアである。
おちゃらか奏法は、お決まりの小枠のひっくり返しである。

葉っぱ流れの浅道を」「ポチ」などはちょっと技巧的な作りであるが、
実態はただひっくり返して英語で唄っているだけ、という事である。
ただひっくり返せばいいというものではない、♪SALAD GIRL  一個多い。
あまり触覚は動かなかったので、朝の司会をやっていたり、子沢山くらいしか覚えていない。

私の「葉っぱ流れの浅道を」という曲は、僕のサラダガール (1976年)
私の「春は風に乗って」という曲は、ガンダーラ (1978)
私の「椿の花に蝿が止まり そして行ってしまった?」という曲は、モンキー・マジック (1978)
私の「ポチ」という曲は、Thank You, Baby (1978)
私の「微熱」という曲は、ビューティフル・ネーム (1979)
私の「二十四時間のブルース」という曲は、銀河鉄道999 (1979)
私の「風はいらない」という曲は、ホーリー&ブライト (1979)


70年代の、私が作曲を始めた頃からのヒット曲をチェック。

私の「幼なじみ」という曲は、あなた(前発1行の後発小枠)(1973) 小坂明子 ワーナー・パイオニア
私の「僕の音楽の部屋」という曲は、青春の愛(前発1行の後発小枠)(1973) 小坂明子
私の「幼なじみ」という曲は、花占い (1974年) 中村泰士 ビクター音楽産業
私の「影踏み」という曲は、年下の男の子 (1976) 穂口雄右 CBSソニー
私の「幼なじみ」という曲は、わかって下さい (1976) 因幡晃 ディスコメイトレコード (TBSの関連子会社)
私の「素直さ」という曲は、春一番 (1976) 穂口雄右 CBSソニー
私の「打明け話 蝉」という曲は、赤いハイヒール(1976) 太田裕美 CBS・ソニー
私の「御月草紙」という曲は、あなただけを (1976) 常富喜雄 テイチクエンタテインメント
私の「風待つ露」という曲は、フィーリング ハイ・ファイ・セット 1976年 アルファレコード
私の「微熱」という曲は、星の砂 (1977) 出門英 ワーナー・パイオニア
私の「ぶどう取り」という曲は、暑中お見舞い申し上げます (1977) 佐瀬壽一 CBSソニー
私の「腕を引けば」という曲は、愛のメモリー (1977) 馬飼野康二 (1977) ビクターレコード
私の「横目チラチラ(Aメロ)」という曲は、迷い道 (1977) 渡辺真知子 CBSソニー
私の「別れの言葉」という曲は、カナダからの手紙 (1978) 平尾昌晃 ビクター
私の「横目チラチラ(Aメロ4行)」という曲は、季節の中で (1978) 松山千春 キャニオン・レコード
私の「ガチャガチャ」という曲は、夢想花 (1978) 円広志 ポニーキャニオン

73年の大ヒットとなった「あなた」という曲は私の「幼なじみ」という曲であった。
しかも(前発1行の後発小枠)(という以外なおちゃらか奏法である。
サザン陣営の(後発小枠)と聖子陣営の(後発ブロック小枠)からさらに細かなと言うか、
ようするに一行ずつひっくり返している分けである。

私の曲が絡んでいないのを探す方が難解の音楽業界である。

日本コロムビア、ポニーキャニオンも加えた、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?                草々

 その 883 NHK行 2014年5月24日
前略 05/04 私の「パペピート」という曲は、時の記憶 (1993年) 菅野よう子 ビクターエンタテインメント
私の「フェステバイ」という曲は、Wanna Be an Angel(1995年)
私の「イェスティ」という曲は、攻殻機動隊 S.A.C OP inner universe(2003年)
私の「フ エ イ」という曲は、攻殻機動隊 S.A.C ED lithium flower (2003年)
私の「ヘッチ」という曲は、攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG OP rise (2004年)
私の「チュクチャク」という曲は、攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG ED living inside the shell (2004年)
私の「ラトピパー(未発表)」という曲は、攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG I do (2004年)
私の「ルビウ」という曲は、攻殻機動隊 S.A.C. SSS OP player (2006年)
私の「マモンコ」という曲は、攻殻機動隊 S.A.C. SSS ED date of rebirth (2006年)
私の「オフェリファン」という曲は、花は咲く(2012年)NHKチャリティーソング

女性作曲家の 菅野よう子氏であるが、何も知らないので今回調べているのみ。
映画マトリクスからの流れで攻殻機動隊のビデオを借りて全篇観ていたが、
ビクターのクレジットを見つけて決定的ではあった。

ほとんどキリバン曲に載せているので暇な人はひっくり返して確認してみてください、
I do」の「ラトピパー(未発表)」だけはまだ載せていません。
創星のアクエリオン」程度でいればいいものを「雉も鳴かずば打たれまい」である。
第二期の楽曲は作りが違うので、無理がある、スムーズではないようだ。



70年代の、私が作曲を始めた頃からのヒット曲をチェック。その2

私の「蜘蛛」という曲は、女のみち(1972年)並木ひろし 日本コロムビア
私の「蜘蛛」という曲は、くちなしの花(中抜き)(1973年)遠藤実 ポリドール
私の「赤いサンダル履いてた子」という曲は、なみだの操(1973年)彩木雅夫 ビクターレコード
私の「幼なじみ」という曲は、うそ(1974年)平尾昌晃 キャニオンレコード
私の「いやな日」という曲は、昭和枯れすすき(前発ブロック小枠)(1974年)むつひろし ポリドールレコード
私の「サリーの君はU」という曲は、ハイサイおじさん (1976年) 喜納昌吉 日本コロムビア
私の「僕の音楽の部屋」という曲は、夢で逢えたら(1976年)大瀧詠一 日本ビクター
私の「別れの言葉」という曲は、贈る言葉 (1979年) 千葉和臣 ポリドール
私の「横目チラチラ(Aメロ)」という曲は、大都会 (1979年) 山下三智夫 キャニオン・レコード
私の「ひとり」という曲は、さよなら (1979年) 小田和正 東芝EMI
私の「僕の音楽の部屋」という曲は、ランナウェイ (1980年) 井上忠夫 EPICソニー
私の「月の夜」という曲は、ダンシング・オールナイト (1980年) もんたよしのり 日本フォノグラム
私の「赤いサンダル履いてた子」という曲は、順子 (1980年) 長渕剛 東芝EMI
私の「横目チラチラ(Cメロ)」という曲は、奥飛騨慕情 (1980年) 竜鉄也 トリオレコード
私の「落下水」という曲は、哀愁でいと (1980年) キャニオン・レコード
私の「冬の遊歩道(Aメロ)」という曲は、恋人よ (1980) 五輪真弓 CBSソニー
私の「落下水」という曲は、スニーカーぶる〜す (1980年) 筒美京平 ソニー・ミュージックエンタテインメント


女のみち 400万枚 (1972年)日本コロムビア
くちなしの花 77.5万(1973年)ポリドール
なみだの操 約 250万枚(1973年)ビクターレコード
うそ 150.1万(1974年)キャニオンレコード
昭和枯れすすき 150万枚(1974年)ポリドールレコード

演歌が上位を占めているので調べてみたらご覧の通り、これだけでシングル1千万枚超えています。

これはもう証人喚問で国民の納得のいく説明が必要のレベルである。

日本コロムビア、ポニーキャニオンも加えた、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?                  草々

 その 884 NHK行 2014年5月31日
前略 05/11 私の「落下水」という曲は、ワインカラーのときめき (1977)
森田公一 キングレコード

千の風になって (2006) テイチクエンタテインメントは、原曲そのまんま。
私の「僕からさよなら」という曲は、万葉恋歌 ああ 君待つと
(前発1行の後発 小枠) (2009) 新井満 ポニーキャニオン


新井満氏の「ワインカラーのときめき」はCМ曲になったり週刊誌にも登場したりしていて、
マルチ人間を自称していたが、それっきりであった。

千の風になって」の説明を掲示板に載せていたのが見つけられない。

ようするにクラシックの王道メロディラインに踏み込んで試作曲を作っていたのが、
即、盗まれて(多分カセットから抜いているだろう)テレビで流れて来たので、
それは発表するものではない、という憤懣である。

それで今回、調べたらひっくり返し曲が出て来た分けで、
ようするに、「千の風になっての原曲(頭隠して)」「僕からさよなら(尻尾隠さず)
バカがぁ、頭隠して尻尾隠さず、である、確かにマルチ人間ではある。



70年代の、私が作曲を始めた頃からのヒット曲をチェック。その3

私の「」という曲は、学生街の喫茶店 (1972年)すぎやまこういち 日本コロムビア
私の「逃げなくちゃ」という曲は、喝采 (1972年) 中村泰士 日本コロムビア
私の「」という曲は、女のねがい (1972年) 並木ひろし 日本コロムビア

私の「」という曲は、若葉のささやき (1973年) 森田公一 CBSソニー
私の「」という曲は、危険なふたり (Aメロ小枠 B・Cメロ前発ブロック後発小枠) (1973年) 加瀬邦彦 ポリドール・レコード
私の「」という曲は、赤い風船 (前発ブロックの後発小枠) (1973年) 筒美京平 CBSソニー
私の「幼なじみ」という曲は、心の旅 (後発 ブロック 小枠) (1973年) 財津和夫 東芝音楽工業
私の「」という曲は、恋する夏の日(1973年)森田公一 CBSソニー
すぎやまこういちの「学生街の喫茶店」という曲は、個人授業 (1973年) 都倉俊一 日本フォノグラム
私の「」という曲は、神田川 (前発 ブロックの後発小枠) (1973年) 南こうせつ 日本クラウン
私の「」という曲は、恋のダイヤル6700 (前発ブロックの後発小枠) (1973年) 井上忠夫 フィリップス・レコード
私の「」という曲は、学園天国 (前発ブロックの後発小枠) (1974年) 井上忠夫 フィリップス・レコード
私の「微塵返し」という曲は、積木の部屋 (1974年) 川口真 キングレコード
私の「御月草紙」という曲は、夫婦鏡 (1974年) 彩木雅夫 ビクターレコード
私の「」という曲は、激しい恋 (前発ブロックの後発小枠) (1974年)馬飼野康二 ビクター音楽産業

私の「三日月夜」という曲は、昔の名前で出ています (1975年) 叶弦大 クラウンレコード
私の「満月」という曲は、22才の別れ (1975年) 伊勢正三 日本クラウン
私の「おでこの君」という曲は、シクラメンのかほり (1975年) 小椋佳 キングレコード
私の「微塵返し」という曲は、心のこり (ラストの一行小枠) (1975年) 中村泰士 日本コロムビア
私の「悲しさ」という曲は、想い出まくら (1975年) 小坂恭子 キャニオン・レコード
私の「僕からさよなら」という曲は、ロマンス (前発ブロックの後発小枠)(1975年) 筒美京平 ビクターレコード
私の「逃げなくちゃ」という曲は、時の過ぎゆくままに (1975年) 大野克夫 ポリドール
私の「サリーの君はU・V」という曲は、俺たちの旅 (中抜き) (1975年) 小椋佳 日本コロムビア


女のみち」の漫才トリオ・ぴんからトリオであるが、歌謡界の伝統、
風貌からいって異質であったが、大ヒットを飛ばした。
一つのスタンドプレーが起爆剤となり大きな流れを作ったような印象である。

作曲者あらわる」で、一斉に飛びついたが契約ではなく、裏技、ひっくり返し曲の蔓延、
というイカレた変動である。
私の「」という曲のひっくり返し曲が6曲も出て来て、その凄まじさが伺える。

ヒット後にテレビで漫才の場を与えられていたが、素人芸にもならず、嘘がバラされていた。
自称作曲者の並木氏は作曲料が不服で日本コロムビアに訴えも起こしている。


夢想花 (1978) 円広志 ポニーキャニオンは、私の「ガチャガチャ」という曲に訂正。

日本コロムビア、ポニーキャニオンも加えた、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?                   草々

 その 885 NHK行 2014年6月7日
前略 05/18 70年代の、私が作曲を始めた頃からのヒット曲をチェック。その4

私の「君の友達」という曲は、ビューティフル・サンデー(1976年)キャニオン・レコード
私の「サリーの君はV」という曲は、
私の「スイスイスイスイ」という曲は、青春時代(1976年)森田公一 CBSソニー

私の「さよなら線路」という曲は、S.O.S(1976年)都倉俊一 ビクターレコード
私の「ライラックの木の下で」という曲は、失恋レストラン(1976年)つのだ☆ひろ CBSソニー

私の「脈打つ心はつっ走れ W」という曲は、カルメン'77(1977年)都倉俊一 ビクターレコード
私の「祭雨」という曲は、勝手にしやがれ(1977年)大野克夫 ポリドール・レコード
私の「」という曲は、渚のシンドバッド (A・Bメロ前発小枠 Cメロブロック小枠) (1977年)都倉俊一 ビクター音楽産業
私の「ぶどう取り」という曲は、ウォンテッド(1977年)都倉俊一 ビクターレコード
私の「月の夜・変な月」という曲は、 UFO (A・Bメロ小枠・Cメロ 変な月 後発小枠) (1977) 都倉俊一 ビクター音楽産業

私の「沖へボートはゆく」という曲は、微笑がえし(1978年)穂口雄右 CBSソニー
私の「御月草紙」という曲は、夢追い酒 (中抜き)(1978年)遠藤実 CBSソニー
私の「夕焼けの悲しさ」という曲は、Mr.サマータイム サーカス(1978年)アルファレコード
私の「ぶどう取り」という曲は、サウスポー(1978年)都倉俊一 ビクター音楽産業
私の「トマト食えば」という曲は、モンスター(1978年)都倉俊一 ビクター音楽産業
私の「銀河経由コスモス行カオス号」という曲は、君のひとみは10000ボルト(1978年)堀内孝雄 東芝EMI
私の「夕焼けの悲しさ」という曲は、透明人間(1978年)都倉俊一 ビクター音楽産業
私の「ぶどう取り」という曲は、みちづれ(中抜き)(1978年)遠藤実 ポリドール
私の「赤いサンダルつっかけて」という曲は、チャンピオン (Aメロ後発小枠 BCメロ小枠) 谷村新司(1978年)東芝EMI
私の「御月草紙」という曲は、カメレオン・アーミー(1978年)都倉俊一 ビクター音楽産業

私の「御月草紙」という曲は、おもいで酒 (前発ブロックの後発小枠)(1979年)梅谷忠洋 ワーナー・パイオニア
私の「すれ違ったまま」という曲は、YOUNG MAN (先発ブロック の後発小枠)(1979年)ビクター


70年代の、私が作曲を始めた頃からのヒット曲ランキング トップ10ですが、
79年まで終わりました。
驚きの結果が見えてきましたが、最終的には原曲の盗みまで手を染めています。

76年の5位 岸壁の母と10位 あの日にかえりたいを除いて総て私の曲が絡んでいます。
岸壁の母軍艦マーチの中抜き、あの日にかえりたい他人の関係のようです。

海外からのカバー曲が3・4曲出てきているが、
触角伸ばしてマネジメントしているのは日本の方であろうからレコード会社に注目である。

どこの国も音楽関係者は甘いが、勘違いしてはならないのはそれと国の体裁とは別である。
まして日本のように層化バッキャモンがしゃしゃり出てきて関わっているとなると、
仕舞いには日本人の資質さへ疑われかねない、もうすでに疑われているのだろう。
個々に問題意識を持った方がいいようである。
 
さて、次回は80年代の総まくりであるが、もう一年近くになり調査料出ないんですか?

日本コロムビア、ポニーキャニオンも加えた、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?                      草々

猫の額山 その 886 NHK行 2014年6月14日
前略 05/25 70年代の、私が作曲を始めた頃からのヒット曲をチェック。その5
私の「別れの後」という曲は、悪魔がにくい (先発ブロックの後発小枠) (1971年) 平田隆夫 ミノルフォン
私の「蜘蛛」という曲は、別れの朝 (先発ブロックの後発小枠) (1971年) ワーナー・パイオニア
私の「白雪姫のお話」という曲は、小さな恋 (中抜き) (1972年) 浜口庫之助 CBSソニー
私の「」という曲は、さよならをするために (小枠サビのみ後発小枠) (1972年) 坂田晃一 日本コロムビア
私の「新しさがもうすぐそこに」という曲は、太陽がくれた季節 (中抜き) (1972年)いずみたく日本コロムビア
私の「新しさがもうすぐそこに」という曲は、瀬戸の花嫁 (1972年) 平尾昌晃 ワーナー・パイオニア
私の「」という曲は、ひとりじゃないの (先発ブロック の後発小枠) (1972年) 森田公一 CBSソニー
私の「まつぽっくり」という曲は、京のにわか雨 (1972年) 平尾昌晃 ワーナー・パイオニア


72年のヒット曲ランキング トップ10が中途半端だったので再チェック。
新しさがもうすぐそこに」という曲は「脈打つ心はつっ走れT」の原型である。

前に「フレーズ毎の両端を利用する」盗作法の事を書いていて、
昭和を代表する作曲家を調べている時に誰か出てこないか期待していたら、
その浜口庫之助氏を調べている時に出だしでもたついたので、
てっきり両端利用者と勘違いしてその線で調べて、たっぷり時間を割いて試行錯誤してしまった。
それでうっちゃっといたが、結局「中抜き利用者」のようである。
マイウェイ」からの中抜きは「涙くんさよなら」のようである。


私の「風待つ露」という曲は、時間よ止まれ (前発ブロックの後発小枠) (1978年) 矢沢永吉 CBSソニー
山内賢&和泉雅子「二人の銀座」という曲は、別れても好きな人 (中抜き) (1979年) 佐々木勉 ポリドール
私の「僕からさよなら」という曲は、おまえとふたり (A・Bメロ) (1979年) 木村好夫 徳間音楽工業

私の「御月草紙」という曲は、大阪しぐれ (中抜き) (1981年) 市川昭介 日本コロムビア
私の「沖へボートはゆく」という曲は、街角トワイライト (1981年) 井上忠夫 EPICソニー
私の「走馬灯」という曲は、ルビーの指環 (1981年) 寺尾聰 東芝EMI
私の「少女と小猫」という曲は、長い夜 (1981) 松山千春 キャニオン・レコード
私の「三日月夜」という曲は、ハイスクール・ララバイ (先発ブロックの後発小枠)(1981年)細野晴臣 フォーライフ・レコード

ネットで「音楽業界への抗議文」を立ち上げた頃であったろうか、
NHKで市川昭介氏が右手を上げて「こちらの勝ちだぁ」とか呟いていたが、
もちろん音楽は勝ち負けの世界ではないし、勝ち負けで作曲が出来れば、そんな楽な事はない。

レコード大賞の制定委員日本音楽著作権協会(JASRAC)の評議員などを務めているが、
しかし作曲が何なのかも知らぬうちに、世を去るというのも哀れではある。
まさか他の曲のフレーズを中抜きするのが作曲とは思ってはいまい。

ちょっと比喩になるが、
エベレストに登頂もしていないのに登頂者を吹聴しているようなものである。

植村直己さんの著書で驚いた事があるが、名うての山をいつもの強行で登っていて、
ふっと立ち止まり、そこからの遠望を紹介するくだりがある。
それがうっとりするような素晴らしい眺めなのであるが、
実際は高高度、酸欠、低温、足場の悪さ、雪崩・滑落の危険が伴っている場であり、
植村さんはさらりと肩越しまで引き寄せてしまうものだから慌てた事がある。

作家の巧みさであるが、表現がうまいというのは凄いものである。
もちろん私が見せてもらった遠望と植村さんの遠望はうっとりする程違う。

うるせー、で、億を稼ぐ、
日本コロムビア、ポニーキャニオンも加えた、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?                     草々

 その 887 NHK行 2014年6月21日
前略 06/01 オフコース

私の「まつぽっくり」という曲は、僕の贈りもの (先発ブロック の後発小枠)(1973) 小田和正 東芝音楽工業
私の「眠り姫」という曲は、眠れぬ夜 (1975) 小田和正 東芝EMI
私の「走馬灯」という曲は、秋の気配 (1977) 小田和正 東芝EMI
私の「夕焼けの悲しさ」という曲は、あなたのすべて (1978) 小田和正 東芝EMI
私の「別れの言葉」という曲は、愛を止めないで (1979) 小田和正 東芝EMI
私の「三日月夜」という曲は、思いのままに (1979) 小田和正 東芝EMI
私の「ひとり」という曲は、さよなら (1979年) 小田和正 東芝EMI
私の「冬と冬の間には」という曲は、Yes-No (1980) 小田和正 東芝EMI
私の「僕からさよなら」という曲は、僕等の時代 (1980) 小田和正 東芝EMI
私の「赤いサンダルつっかけて」という曲は、I LOVE YOU (1981) 小田和正 東芝EMI
私の「サリーの君はV」という曲は、言葉にできない (1981) 小田和正 東芝EMI
私の「」という曲は、YES-YES-YES (1982) 小田和正 東芝EMI

私の「横目チラチラ」という曲は、ラブ・ストーリーは突然に (1991) 小田和正 ファンハウス

私の「ビバデ」という曲は、たしかなこと (2005) 小田和正 ファンハウス


オフコースもあまり知りません。
たしかなこと は筋金入りのおちゃらか奏者という事である。

ほとんど先発の小枠作りですが、低音部での区切りが多いようである。
ハキハキとした歌声と語りかけるような歌詞で女性達を魅了したのでしょうが、
私は気にもならなかった。
82年の10日間連続武道館公演など催していたが、私は売り込みから離れ、
さばさばしていた時期である。

この人もスタッフの言われるとおりに動く、売れ線狙いの歌い手でしょう。


80年代の、私が作曲を始めた頃からのシングル売り上げトップテンをチェック。その1

私の「別れの言葉」という曲は、セーラー服と機関銃 (中抜き)(1981年)来生たかお キティレコード
私の「まつぽっくり」という曲は、心の色(1981年)木森敏之 日本コロムビア

私の「僕からさよなら」という曲は、情熱・熱風・せれなーで(1982年)筒美京平 RCA
私の「僕からさよなら」という曲は、北酒場(1982年)中村泰士 日本コロムビア
私の「御月草紙」という曲は、ふられてBANZAI(1982年)筒美京平 RCA
私の「僕からさよなら」という曲は、ハイティーン・ブギ(1982年)山下達郎 RCA
私の「別れの言葉」という曲は、さざんかの宿 (中抜き)(1982年)市川昭介 日本コロムビア

私の「少女と小猫」という曲は、聖母たちのララバイ (1982)木森敏之 ビクター
私の「スイスイスイスイ」という曲は、待つわ (1982) あみん 日本フォノグラム

山下達郎両刀使い決定。

今回も日本コロムビアが目立っているが、
日本コロムビア、ポニーキャニオンも加えた、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?                草々

 その 888 NHK行 2014年6月28日
前略 06/08 80年代の、私が作曲を始めた頃からのシングル売り上げトップテンをチェック。その2

私の「風はいらない」という曲は、氷雨(1982年)とまりれん 日本コロムビア
私の「別れの言葉」という曲は、矢切の渡し (中抜き)(1982年)船村徹 日本コロムビア
私の「夏に逢えば」という曲は、セカンド・ラブ (中抜き)(1982年)来生たかお ワーナー・パイオニア
私の「シャムプーがないプー」という曲は、めだかの兄妹(1982年)三木たかし フォーライフ

私の「対 影」という曲は、め組のひと(1983年)井上大輔 EPICソニー
私の「ボートは沖へゆく」という曲は、探偵物語(1983年)大瀧詠一 東芝 EMI
私の「」という曲は、キャッツ・アイ (先発ブロック の後発小枠)(1983年)小田裕一郎 フォーライフ
私の「サリーの君はV」という曲は、フラッシュダンス (中抜き)(1983年)カサブランカ・レコード
私の「ひとり」という曲は、悲しみがとまらない (1983) 林哲司 フォーライフ・レコード
私の「十字路のアイソタイプ」という曲は、もしも明日が…(1983年)三木たかしフォーライフ

私の「御月草紙」という曲は、北ウイング(1984年)林哲司 ワーナー・パイオニア
私の「星の面影」という曲は、涙のリクエスト チェッカーズ (1984) 芹澤廣明 キャニオンレコード
私の「冬みかん」という曲は、娘よ(1984年)松浦孝之 テイチク
私の「夕焼けの悲しさ」という曲は、サザン・ウインド(1984年)玉置浩二 ワーナー・パイオニア
私の「腕を引けば」という曲は、哀しくてジェラシー(1984年)芹澤廣明 キャニオンレコード
私の「僕からさよなら」という曲は、十戒(1984年)高中正義 ワーナー・パイオニア
私の「トマト食えば」という曲は、星屑のステージ(1984年)芹澤廣明 キャニオン・レコード
私の「僕からさよなら」という曲は、ジュリアに傷心(1984年)芹澤廣明 キャニオン・レコード

年が替わり歌い手の顔は変われども、何故か替わらぬ原曲者、といったところ。

セカンド・ラブを聴いている時、トランペットの聞き覚えのあるメロディが流れてきたので、
絞り込んで調べていたら、やはり「夏に逢えば」であった。


フラッシュダンスは、たしか映画の中で中抜きを暴露していたような、ぽっちんシーンで。

日本コロムビア、ポニーキャニオンも加えた、
ソニー、東芝、ビクター、申し開きはまだか?          草々

2014年〜

トップページ 95年 96 97年 98年 99年 00年 7月 01年 7月
Eメール
7月 03年 7月 04年 7月 05年 7月 06年 7月
07年 7月 08年 7月 09年 7月 10年 7月 11年 7月
2012年 7月 13年 7月〜 ___ 7月 15年 7月 16年 7月
2017 7月 18年〜 7月 19年 7月 20年 7月 21年 7月
2022年 7月 23年 7月 24年 7月